2021/02/28
花園城/埼玉県寄居町
花園城は山内上杉家重臣・藤田氏歴代の居城でした。杉山城や菅谷館にも引けを取らない、素晴らしい城跡です

訪問日は2021年2月23日です。

地図を見ると花園城の南東の麓に「善導寺」があります。
でも、現地を訪ねるとその前に「藤田」と付きます。
お察しの通りで、創建も中興も藤田氏が関わっています。

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ここもこれが欲しくて、かなり久しぶりに訪ねました。
藤田善導寺の裏から登れるかとも思いましたが・・・
以前と同じ、お寺の西側にある①の諏訪神社から登城しました。

諏訪神社
線路沿いの道から見た諏訪神社です。
鳥居が目印です^^

3 諏訪神社
城跡までは、社殿右脇から目印のピンクテープが続いています。
前回訪ねた時には踏み跡がうっすらで、結局竪堀を直登でしたが・・・

4 竪堀
神社背後から西へ水平に進むと、この竪堀に行き当たります。
前回はこの堀底を落ち葉や枯れ枝を掻き分けながら登りました。
今はこの少し手前に、竪堀に沿って堅い踏み跡が上まで続いています。

5 竪堀が2本に分岐
ピンクテープの踏み跡を登ると、上の方で隣の竪堀に合流します。
ここ、二重竪堀だったんですね


6 竪堀と切岸
正面には、竪堀の奥に土の壁が見えます。
いよいよ城域に突入です。

7 東から3番目の堀切
土の壁手前で堀は右へ曲がり、さらにカギ形に左へ曲がります。
その曲がった先が、こんな感じになっています



山の中で見る堀切としては、かなり長い部類に入ります。
しかも、掘った面は岩が露出しています。
相当な難工事だったと思われます。

8 曲輪
堀切は、奥から左右へ上れるようになっています。
まずは右(東側)へと上がりました。
曲輪内部は、いつもの光景です。
この写真を見せてどこか当てられたら、超ツワ者ですね!

9 東から2番目の堀切
上がってきた堀切のもう1つ東側にあるのがこの堀切です。

10 一番東側にある堀切
そして次の堀切です。
間の曲輪内部の様子は割愛します

ここも岩盤を頑張って掘った様子がわかります。

11 上から見た竪堀
この堀切は、そのまま南斜面を下る竪堀となります。
見える限り、ずっと掘られています。

12 下から見た竪堀
花園城は、南側の斜面に腰曲輪があります。
その腰曲輪の脇まで下りて来て、振り返って見た竪堀です。
本当に真っ直ぐで、敵の進路をここに限定するかのように見えます。

13 竪堀
竪堀からやや草深めな腰曲輪を西側へ進むと、竪堀の所で終わります。
竪堀の向こう側にも腰曲輪が続いています。
この感じは、天神山城の腰曲輪とよく似ています。

14 曲輪南側の石垣
下の腰曲輪から城塁を見上げると、上の曲輪の石垣がよく見えます。
高さは1メートル程で、豊織式のものとは違って土止めのようです。

15 一番東の堀切の東側
14→10へと竪堀を登り直し、さらに東側へ進んでみました。
上の面は削平されていて、曲輪のような感じになっています。
しかし、ここから先には堀切は無く、やがて道は右(南)へと曲がります。
地図を確認したら、丁度善導寺の真上辺りでした。

16 東から3番目の堀切(7の反対側)
城内の真ん中に上がって東へ進んだので、今度は反対側へ。
上がってきた堀切を西側へ!

17 東から4番目の堀切
曲輪内部はどこも代り映えしないので、飛ばします♪
次の堀切も、ガッツリ岩場を掘り砕いています。

18 東から4番目の堀切
少し下のココが一番固そうな感じです。

19 主郭南側の石垣
この曲輪も、外側から見ると端っこが布積みの石垣で補強されています。
端っこに行くと、見に下りた跡があるのでわかりやすいです。

20 城址碑
かなり広い曲輪の端の方に、これがあります。
基本的に手付かずの城跡ですが、ちゃんとあります。
城跡の保存方法としては、かなり理想的だと思います


21 城址碑のすぐ西下にある横堀
城址碑のすぐ西側が崖のようになっています。
そこから下を見ると、城塁に沿って横堀があります。

22 城址碑のすぐ西下にある横堀
下りてみると城塁は岩盤で、その脇の土塁っぽいのも岩でした。
石を積んだものだと石塁と呼びますが、この場合は何と呼べば・・・?w
とにかく、岩盤の足元を掘って横堀にしてあります。

23 主郭の西側
西側には、数段の曲輪があるようです。
2段目の右側にうっすらと虎口っぽさはありましたが・・・
目立った堀や土塁などは見当たらず、城域はここまでのようです。

24 竪堀
登城口へ戻ろうと、先ほどの横堀に沿って進みました。
横堀は右へ曲がり、そのまま竪堀となります。

25 竪堀
下まで進んで振り返るとこんな感じです。
登ってきた時と同じように、土の壁が前方を塞いでいます。
でも、ここは登って来た所とは別の場所です。
GPS無しで登ると、城のどの辺なのかがわからず混乱しそうです。

26 竪堀
竪堀はここでも真っ直ぐ下っています。

27 石垣
南側の腰曲輪でも石垣が見られます。
ただ、上の曲輪とは積み方が異なります。
もしかしたら畑だったのかもしれません。

28 横堀と石垣
腰曲輪の下の横堀から曲がって竪堀になる所です。
ここは登ってきた竪堀に入る所で、来た時とは反対の左側です。
その足元にも石垣がありますが、入口を固める虎口だったのでしょうか。
それとも、この上に小屋を建てていたのでしょうか。
もしかしたら、ここも畑だったかもしれませんが・・・
城内散策の様子を動画にしてみました。
◆歴史◆
藤田政行により築かれたとされます。
藤田政行は猪俣政家の子で、平安時代の人物です。
保元の乱(1156年)に源義朝方として活躍しています。
その居城として築いたのが花園城とされます。
藤田政行の嫡男・藤田行康は源頼朝方として、一の谷で戦死。
その嫡男・藤田能国が領地を安堵されています。
1221年の承久の乱では藤田能兼とともに北条得宗家方として活躍。
文博士として院宣を読み上げており、文武両道の武者だったようです。
藤田一族は浄土宗に帰依し、持心が藤田派を起こしました。
その子・良心が、今も城の麓にある善導寺を創建しています。
藤田重行が天神山城に居城を移しました。
藤田重行は大石定久とともに、山内上杉家の重臣でした。
その山内上杉家では、上杉憲政と上杉憲寛が家督を巡り争いました。
この争いは1531年、上杉憲政が勝利しました。
藤田重行は上杉憲政方として、秩父地方の攻略に当たりました。
そしてその勝利後、秩父往還沿いに根古屋城と要害山城を築きました。
根古屋城は後の天神山城で、白鳥天神宮の背後の山に築かれました。
藤田重行は天神山城に居城を移し、秩父統一の拠点としました。
藤田重行が北条氏康に降伏しました。
1547年の河越夜戦で、上杉憲政が北条氏康に敗れました。
上杉憲政の勢力は上野国まで後退し、後北条軍が武蔵各地を攻略。
藤田重行は大石定久とともに、後北条軍の軍門に降りました。
この時に両家とも北条氏康の子を養子として迎えています。
ただし、藤田氏を継ぐことになる北条氏邦は1548年生まれです。
藤田重行が後北条氏に降ったとされる1549年でも1歳です。
藤田氏は1560年、長尾景虎が関東に攻め込んだ際に従っています。
そのため、本拠だった天神山城が後北条軍により攻め落とされました。
そして、北条氏邦が天神山城に入ったのは1564年です。
藤田氏が天神山城や鉢形城を明け渡したのは、この頃と思われます。
本拠を明け渡した藤田氏は用土城に移り、用土姓に改めています。
用土姓に改めた後も、藤田氏邦のもとで活躍したようですが・・・
1578年、用土重連は上杉家から沼田城を奪いその城代となりました。
藤田氏邦はこれに激怒し、用土重連を毒殺してしまいます。
北条氏政は用土重連の弟・用土信吉をその後任にしました。
用土信吉は兄の死の真相を知ると、身の危険を察し武田家に鞍替えします。
藤田家嫡流の人物が居なくなると、藤田氏邦は北条姓に復姓しています。
1590年、廃城になったと考えられます。
豊臣秀吉が後北条家を討伐し、北条氏邦の鉢形城も攻められました。
天神山城にも守将が置かれており、花園城も同様だったと思われます。
北条氏邦は1か月の籠城した後開城し、豊臣軍に降伏しました。
鉢形領の各城も同時に開城し、廃城になったものと考えられます。
北条氏邦は戦後、徳川家康の助命嘆願により前田利家預かりとなりました。
この時、上杉家臣となっていた藤田信吉も助命嘆願したとされます。
加賀に移った北条氏邦は、1597年に50歳で没しています。
所在地:埼玉県大里郡寄居町末野 GPSログダウンロードページ
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