2021/02/22
龍崖山城/埼玉県飯能市
龍崖山城は、岡部屋敷の奥にある詰城です。訪問日は2021年2月20日です。

奥が龍崖山、右手前が岡部屋敷です。
岡部屋敷は、そんなに高くない尾根部分にありました。
そして、背後の龍崖山山頂を詰城としていました。
それにしても、山一面がヤバイ色してます。
当日はまだ花粉症の私でも何も感じませんでしたが・・・
ここ数日は小春日和を通り越して初夏の陽気が続いています。
私の山城シーズン、早くも黄色から赤に変わりつつあります


①中屋敷跡
郵便局前の信号から線路をくぐった所がココです。
岡部屋敷の真下の広大な平坦地が、中屋敷があったとされる場所です。
元々ここに小学校があったそうで、遺構らしき物は何も見当たりません。
車を停める場所には困りませんが^^

毎回録ってるGPSログですが、ここでは不安定でした。
3個でログを録ったのですが、かなりバラけていました。
こいつが一番まとまっていましたが・・・
それでも①から④まではブレブレです。

①ブレハブの裏から
龍崖山には山キチさん達も登りますが、ここからではありません。
あちこち山巡りしつつ、上から尾根伝いに立ち寄る感じです。
ヤツラは口々に「何も無かった」と言いますが・・・
登城路をかなりパクってる身分なので、口を慎まねば

城キチの登城口は、プレハブの裏側です。
笹藪



えいや!っと笹を掻き分けると、すぐに下草が無くなります。

①この尾根を登ります
中屋敷から一段高いここからみて、右側に尾根があります。
道はありませんが「ここを登れ」と訴え掛けてくる感じがします。
私の心の声でしたが、精神に働きかけるタイプでしょうか・・・
ホラーじゃないですよw
下の方は道がありませんが、少し登るとはっきりした道が現れます。

②帯曲輪状の場所
少し登ると、帯曲輪状の所に出ます。
踏み跡はそのまま構わず登っています。
私も先人に倣いここを登りました。

③岡部屋敷
登った所は往時の道ではなかったようで、そのままここに出ました。
噂には聞いていましたが、マジで超広いです^^

③岡部屋敷・妙見様
GPSで形を記録しようと、外周を一周しました。
一部やや笹の濃ゆい所もありましたが・・・
東側の祠の周りはとても綺麗でした。
そういう場所だからここに祠を祀ったのかもですが。
扉にはお月様のマークがあります。
妙見様ですね^^
とりあえず参上のご挨拶しました。

③岡部屋敷・虎口
一周する少し手前で、地面が窪んでいるのを見つけました。
カギ型に窪んでおり、どうやらここが虎口だったようです。
先ほど登って来た所は、ここから10メートル程先です。
②の帯曲輪状の所から回り込み、ココから上がったかもしれません。

③岡部屋敷
虎口の西側は、かなり緩い傾斜となっています。
曲輪なのかもしれませんが、建物を建てるには斜め過ぎます。

③岡部屋敷・登山口
虎口のすぐ後ろに、山へと入っていく道があります。
その手前の木に、ピンク色のテープで目印がありました。
見つけた順番が逆でしたが・・・
城キチなんて、そんなもんですw

④岡部屋敷上の曲輪
ピンクテープから5メートル程上がった所から、手前側にあります。
目印や案内は無く、何となく寄ったら平らな場所でした。

④岡部屋敷上の曲輪から見た岡部屋敷
広い岡部屋敷を表現するには上から!と思っていました。
しかし、杉の木が沢山あって、ドローンを飛ばせる状況でもなし。
そんな私への何かのご褒美、という事にしておきます。
何かの運をココで使い果たした、という訳ではないと思いたいデス。
まぁでも、肉眼ではとても良く見えたのですが・・・
写真にすると、ただのバーコードに見えなくもなし。
お天気がいいと、陰陽のコントラストが強烈になります。
写真撮ることだけ考えれば、うっすら花曇りがベストです。

⑤登山道
岡部屋敷から山頂までは、割と道がはっきりしてます。
そう思って撮ったのですが、見え、ますよね?


⑥龍崖山山頂の一歩手前
山道を登り切るとココに出ます。
皆様の足跡はまっすぐ正面のこんもりを登っています。
ほんのわずかですが、山頂部は段差があります。
段差を登っちゃいけないとすれば、こっちへ進むのが正解です。
こっちへ進むと、主郭から鞍部へと向かう側に出ます。

⑥主郭
と言いつつ、そう思ったのは帰宅してからです。
ここでも先人に倣って真っすぐ上がっちゃいました。
人の手が入った証のように、とても綺麗に馴らされています。

⑥主郭の西側
こんどは鞍部のある西側へ。
こちら側は先細りのような感じで下ります。
先端が台形のようになっているのが見えると思います。
下る道は、こちら側から見て右脇へ回り込むようになっています。
ココ、虎口なんですね


⑦主郭西側の1つ下の曲輪
上の虎口を反対側から見た所です。
反対側から見ているので、道は左脇から回り込んでいます。
真正面は2メートル程の切り立った段差になっています。
これ、尾根を人為的に削っていますね!

⑦主郭西側の1つ下の曲輪
人の手が入っているということで、ここも平らに馴らされています。
しかし、居住空間という広さはありません。
おそらくココがこちら側の防衛拠点と思われます。

⑦主郭西側の1つ下の曲輪の虎口
ああ、固有名詞が無いと長ったらしいw
⑦の外側には、平らな岩が並んでいます。
周りに岩は見当たらず、通り道に都合よく並んでいます。
これもおそらく、人為的なものと思われます。

⑦虎口
反対側から見るとこうなっています。
これ、誰が見ても門ですよね?
ご丁寧に階段まであります。

⑧堀切
⑦の門のすぐ外側には、土橋のある堀切があります。
私がココで一番見たかったのが、この堀切です。
門のすぐ外側なので、おそらくセットだったと思われます。

⑧堀切
せっかくなので、横顔を拝見しました。
左側は巨岩です。
人の手では動かせない大きさなので、地形を利用したようです。
通り道を完全に塞いでいたら、また違った形になったと思います。

⑧堀切
反対側から見た堀切です。
葉っぱのある木があり視界が良くありません。
右下から進み、大きな岩の右脇の土橋を通ります。
こちら側には、登って来た側には無い防御機構が沢山あります。
もしかしたら、城としての大手はこちら側だったかもしれません。
◆歴史◆
我野岡部氏の居城でした。
岡部氏は猪俣党の一族とされます。
地理的には丹党の鍛冶氏の勢力圏ですが・・・
岡部氏は深谷が本貫地なので、飛び地的な感じがあります。
何か大きな戦があり、鍛冶氏の領地が岡部氏に与えられたのかもしれません。
そう思って鍛冶氏を調べると、鍛冶氏的にも飛び地感がたっぷりでした。
鍛冶氏の本貫地は、上野国との境に近い神流川流域だそうです。
ただ、入間市や飯能市には鍛冶氏関連の城がいくつもあります。
鎌倉時代には、領地が飛び地になることがよくありました。
御家人が力を持ち過ぎないよう、地理的に分断したのかもしれません。
天文年間(1532-55)に後北条軍に攻め落とされました。
『寛政呈譜』に、岡部氏歴代の挙動が記されています。
はじめは鎌倉公方に仕え、岡部景澄は足利持氏と共に自害しています。
子の岡部忠邦もはじめ足利持氏に仕え、後に上杉憲実に仕えます。
足利持氏は上杉憲実と争い敗れており、岡部忠邦は降伏したようです。
次の代の岡部憲澄は足利成氏に仕えた後、上杉定政に仕えています。
足利成氏は古河に移っており、地理的に離れたからでしょうか。
以後の岡部氏は、扇谷上杉家に仕えています。
そして岡部泰忠の天文年間に、後北条軍により我野を攻められています。
扇谷上杉家と後北条家が天文年間に争ったとすれば、河越夜戦ですね!
後北条家に侵略された上杉方は、この時手を結んで対抗しました。
山内上杉家、扇谷上杉家だけでなく、長年争った古河公方とも組みました。
そうして挑んだ一大決戦が河越夜戦でしたが、夜襲により形勢逆転。
扇谷上杉朝定が戦の最中に病死か戦死し、後北条家は勢力を拡大しました。
攻められたとすれば、おそらくこの時期だと思われます。
この時、岡部泰忠は撃って出て、後北条軍により討ち取られています。
たぶんですが、勝ち目が無いと見たのかもしれません。
当時幼子だった次の当主・岡部忠秀は、高麗郡日影郷に蟄居しています。
なので、この落城で廃城になったと思われます。
岡部忠秀は成人すると後北条家に仕え、松田憲秀の配下となっています。
松田憲秀といえば、小田原征伐の際に主家を裏切ったことで有名です。
その自害の際に介錯をしたのが、孫の岡部吉正です。
岡部吉正は高野山へ赴いたものの、後に徳川家康に召し抱えらています。
所在地:埼玉県飯能市吾野 GPSログダウンロードページ
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コメント
無題
2021/02/23 05:19 by 青空さん URL 編集