fc2ブログ

青鳥城/埼玉県東松山市

青鳥(おおどり)城は東松山I.C.のすぐ脇にありました。
訪問日は2012年5月19日です。

青鳥城/主郭南西側土塁
▲主郭南東側の土塁を外側から

インターチェンジの西にある「きじやま」交差点を右折すると、もうそこは城域。左側に見えるこんもりした場所が青鳥城跡です。

青鳥城/主郭南西側空堀
▲主郭南東側の空堀を内側から

バイクを路駐して城内へ。土塁を登ると、早速見事な空堀が姿を現しますヽ(´ー`)ノ

青鳥城/主郭内部
▲主郭内部

そのまま進むと主郭内部へ。一面の畑となっていました。端の方は歩けるようになっています。

青鳥城/主郭の土塁
▲主郭を取り巻く土塁

その畑を取り巻く見事な土塁。高さは2m程。守りはバッチリですが・・・城キチが次々訪れますねw

青鳥城/城址碑
▲城址碑

主郭をぐるっと1周回ると、南側に坂があり出口になっています。その内側に写真の城址碑がありました。ああ、本当はココから出入りするんだあせる

そして後から知った衝撃の事実・・・2郭だと思って"わーすげー!"と見ていたのが、実は主郭だった事。この外側は、改変を受けながらも更に見事な土塁や空堀がある、らしい( ;∀;)

また今度機会があったら見に行こう!行かないかもしれないけどwww


◆歴史◆

築城年代は不明です。近隣の松山城もよくわかっていないのですが、1399年に上田友直が築いた説が有力です。青鳥城が松山城の支城だったという位置づけだと、その近辺の可能性があります。

記録が残るものでは、1478年に扇谷上杉定正と太田道灌が在陣しています。1478年といえば、長尾景春の乱ですね。Wikipediaでこの乱について見ると、青鳥に在陣しそうなのは1477年ですが・・・wこの頃には既に城として存在していたようです。

そこから100年程の動向は不明ですが、おそらく松山城と連動していたと思われます。以下に松山城の年表を抜粋すると、

1537年、扇谷上杉朝興が死去。河越城は北条氏綱に攻められ落城。松山城は難波田憲重が死守。
1546年、北条氏康が河越夜戦で奇襲により両上杉・古河公方連合軍を撃破。松山城も落城。
1547年、9月に太田資正が松山城を急襲して奪還。12月に松山城を任せていた上田朝定が北条氏に寝返る。
1559年、上杉謙信が関東に攻め寄せ、上田朝定が上杉氏に寝返る。
1563年、第二次国府台合戦に勝利した北条軍により松山城が落城。
1569年、三増峠での武田軍との戦いで戦功を挙げた上田朝定が松山城主の座に復帰。

・・・とまぁ色々ありました。上田朝定が松山城主になると、青鳥城はその家臣・山田伊賀守直安が城主となりました。

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐がありました。埼玉辺りは前田利長、上杉景勝を中心とした北国勢により席巻されました。この時に青鳥城も落城したと思われます。山田直安は徳川家康に300石で召抱えられ、主を失った青鳥城は廃城になりました。


所在地:埼玉県東松山市石橋

埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR