2021/02/14
白石城/埼玉県美里町
白石城は、某大聖典で城山の10番めに掲載されているお城です。訪問日は2021年2月13日です。

白石城は「城山」と呼ばれていましたが、現状はこんな感じです。
お城の主要部分は粘板岩質の土が採取され、山ごと消滅しています。
しかし、写真手前と奥の両サイドはわずかに残っています。

採土のためほぼ消滅しており、先人達も位置の把握に苦労されたようです。
私は発掘調査の報告書を偶然入手することが出来、参考にしました。
1983年で38年前の発行なので、どこまで現状に迫れるか?でしたが・・・
かなり参考になりました


①駐車スペース
車等は、南側にスペースがあり停めておくことが出来ます。
ただ、ここから内部への道のようなので注意が必要です。

②曲輪G
まずは西側の腰曲輪です。
発掘調査報告書に掲載されている要図の曲輪Gがココです。
ここにはお墓があり、破壊を免れています。
ただ墓碑が沢山あり、崩された所から集められたかもしれません。
奥が土塁のように見えますが、主要部城塁の崩し残しです。
この向こう側はザックリ削られ平坦地となっています。

③消滅した主要部
お墓の東側の平坦地が、主要部のあった場所です。
ここにあった独立小丘陵に、4つの曲輪から成るお城がありました。

④東側の切断面
お城の中心部は消滅しましたが、ここから東側は残っています。
その端っこがココです。
訪問前は、ここが堀切のあった場所だと想定していました。
実際に見てみると堀切の名残は無く、尾根がここで切れています。
ここから尾根の断面に上がりました。

⑤堀切
削り残しの尾根から東へ進むと、ありました

尾根を分断しているので、定義的には堀切だと思います。
北側に谷状の低地があるので、通り道だった可能性も否定できません。

⑥曲輪E
堀切の東側には、やや削平された感じのまとまった空間があります。
報告書では曲輪Eと記載されているのがココのようです。
捨て曲輪だったと書かれており、居住には向いてない感じです。

⑦堀切?
曲輪Eからさらに東へ進むと、うっすら尾根を横切る凹みがあります。
山城なんかでは盛大に「堀切」と紹介されるのですが・・・

⑧堀切
⑦のすぐ東側に、はっきりとした堀切があります。
報告書では、堀切は2本現存していると記載がありました。
本数が明記されていなければ、⑦も堀切様の列に加えたいのですが・・・
⑦はリアル通り道のような感じです。
南側の道から、⑦に沿って上がれるようになっています。

⑨曲輪F
⑧の堀切の東側です。
訪問時の私は曲輪Eを曲輪Fと勘違い。
痛恨のミスで、こちら側には足を踏み入れていません。
堀切にはよじ登った跡があり「ここ入る人いるんだ」なんて思ってました。
ああ、やっちまったい(`・ω・´)v
例の報告書では、こちら側は調査対象外となっています。
それは、発掘調査自体が消滅個所の記録を目的としていたからです。
おそらくこちら側は手つかずで、原形を留めている可能性があります。
・・・書けば書くほど悔しくなってきます

◆歴史◆
白石播磨守の城とされます。
築城時期は不明ですが、伝わる城主は白石播磨守です。
この辺は『新編武蔵風土記稿』の白石村の項でチョクチョク出てきます。
白石播磨守は猪俣弾正少弼定平の二男と、宗清寺の所に書かれています。
宗清寺は、白石城から南西に330メートルの所にあります。
北条氏邦の1582年の印判状の「白石代」と考えられています。
この書状は、武器等の配給について記されたものです。
記名が「白石代」のみのため、ある程度の地位だったと考えられています。
宗清寺の事を書きましたが、開基は永正年間(1504〜21年)です。
このお寺を開基したのが、白石播磨守こと白石宗清です。
上の書状が書かれた翌年の1583年に没しています。
・・・それ以上わからないのですが

1584年の北条氏邦の書状にも「白石」の名が登場します。
白石宗清の子は白石宗綱とされますが、名前しかわかりませんでした。
鉢形城とともに廃城になったと伝わり、この時の城主かもしれません。
尚、宗清寺の東隣にある天厳寺は、猪股邦憲が開基しました。
天厳寺は白石城から南に300メートルの所にあります。
お城に一番近いお寺だったので、最初に調べたのはこっちでした。
猪股邦憲は北条氏邦の重臣で、沼田城代を務めた人物です。
上野国のイメージが強いですが、本貫地とのつながりもあったようです。
猪股邦憲が白石宗清の支配を引き継いだ可能性もありそうな感じです。
所在地:埼玉県児玉郡美里町白石 GPSログダウンロードページ
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