2021/01/29
猪俣城/埼玉県美里町
年末年始埼玉シリーズ最後は猪俣城です。
訪問日は2021年1月1日です。
訪問日は2021年1月1日です。

猪俣城へは、虎ヶ岡城と同じく円良田特産センターに車を停めます。
そこからハイキングコースを経て、城跡まで行くことが出来ます。
そこからハイキングコースを経て、城跡まで行くことが出来ます。

①円良田特産センター
山ありダム湖ありの円良田特産センターです。
虎ヶ岡城とは違い、この先車を停められる所はありません。
この駐車場はいつでも停めることが出来ます。
山城探訪にはとてもありがたい存在です。
山ありダム湖ありの円良田特産センターです。
虎ヶ岡城とは違い、この先車を停められる所はありません。
この駐車場はいつでも停めることが出来ます。
山城探訪にはとてもありがたい存在です。

②ここを右へ
城跡へは、特産センターから道の右側を北へ進み、ココで右折します。
案内が沢山ありますが、一番地味な鐘撞堂山の案内を目印にします。
城跡へは、特産センターから道の右側を北へ進み、ココで右折します。
案内が沢山ありますが、一番地味な鐘撞堂山の案内を目印にします。

③山道の入口
ゴルフ場への綺麗な道をしばらく進むと、例の案内があります。
ここからは山の中のハイキングコースを歩きます。
幅も広く整備されており、とても歩きやすい道です。
ゴルフ場への綺麗な道をしばらく進むと、例の案内があります。
ここからは山の中のハイキングコースを歩きます。
幅も広く整備されており、とても歩きやすい道です。

④要注意ポイント
ここまでは、誰がどう見てもなハイキングコースが続きます。
しかし、ココで鐘撞堂山の案内が無いまま道が分岐します。
雰囲気的には「案内無いしまっすぐ?」な感じですが・・・
正解は、左斜め手前の道へ進んで下さい。

⑤分岐
鐘撞堂山への案内を目印にするのはココまでです。
城跡へは、案内の無い左側へ進みます。
鐘撞堂山への案内を目印にするのはココまでです。
城跡へは、案内の無い左側へ進みます。

⑥城跡へ続く尾根
こちら側には道がありません。
こちら側には道がありません。


⑦主郭の切岸
緩やかな尾根を進むと、突然土の壁が行く手を遮ります。
いきなりですが、この上が主郭です。
右斜め上に上がる踏み跡を辿ります。
緩やかな尾根を進むと、突然土の壁が行く手を遮ります。
いきなりですが、この上が主郭です。
右斜め上に上がる踏み跡を辿ります。

⑧主郭南側
とはいえ、往時は無かった道のようで虎口等はありません。
訪ねる人がマイナーな嗜好の人だけな様子がとてもよくわかる光景です
とはいえ、往時は無かった道のようで虎口等はありません。
訪ねる人がマイナーな嗜好の人だけな様子がとてもよくわかる光景です


⑨堀切
主郭は南北に細長く、その真ん中に大きな堀切があります。
堀切っぽく見えますが、虎口かもしれず・・・
でも、この先は斜面なので堀切なんだと思います。
主郭は南北に細長く、その真ん中に大きな堀切があります。
堀切っぽく見えますが、虎口かもしれず・・・
でも、この先は斜面なので堀切なんだと思います。

⑩主郭北端
草深かった主郭も、北端だけは大丈夫です。
端が少し高くなっていて、土塁で囲まれている様子がわかります。
草深かった主郭も、北端だけは大丈夫です。
端が少し高くなっていて、土塁で囲まれている様子がわかります。

⑪主郭北側の虎口
土塁の一端が少し凹み、そこから下る道があります。
道はクネクネと曲がりながら、下の雑木林へと続いています。
土塁の一端が少し凹み、そこから下る道があります。
道はクネクネと曲がりながら、下の雑木林へと続いています。

⑫北西の曲輪
下の段の曲輪です。
上からは何となく見えましたが、下りてみるとかなり広いです。
この曲輪は東西に細長く伸びています。
左側(南側)には、一段低い腰曲輪が並んでいます。
下の段の曲輪です。
上からは何となく見えましたが、下りてみるとかなり広いです。
この曲輪は東西に細長く伸びています。
左側(南側)には、一段低い腰曲輪が並んでいます。

⑬上から見た二重堀切
先端部からは、尾根を下るような段々が見えます。
行ける所まで行ってみようと下りてみました。
先端部からは、尾根を下るような段々が見えます。
行ける所まで行ってみようと下りてみました。

⑬二重堀切
すると、堀切が2つ並んでありました
この先も少しだけ進みましたが、これ以上は自然地形のようです。
城跡には南側から入りましたが、往時はこちら側が大手だったようです。
すると、堀切が2つ並んでありました

この先も少しだけ進みましたが、これ以上は自然地形のようです。
城跡には南側から入りましたが、往時はこちら側が大手だったようです。
◆歴史◆
猪俣氏の城だったと考えられています。
『新編武蔵風土記稿』の那賀郡猪俣村の項に登場します。
そこでは兵庫頭入道から猪俣の介と名乗って当地に住んだとあります。
「保元平治物語の猪俣範綱から6代」なので、室町時代初期と思われます。
観応の擾乱で登場する猪俣兵庫入道
『太平記』に猪俣兵庫入道の名が登場します。
1351年、上杉憲顕と宇都宮氏綱が戦いました。
これは、2人の関東管領・上杉憲顕と高師冬の争いが発端です。
足利尊氏に近い高師冬が、上杉氏の排除を目論み上杉重能を暗殺。
上杉憲顕が子の上杉能憲とともに挙兵し、高師冬を攻め滅ぼしました。
さらに、足利尊氏と対立する足利直義を鎌倉に招こうとしました。
そのため足利尊氏は宇都宮氏綱に命じて上杉憲顕を討伐。
この時の宇都宮方の武将の中に、猪俣兵庫入道の名が登場します。
(「隣国」武蔵から猪俣氏、安保氏、岡部氏が参陣と記されています)
宇都宮勢は圧倒的な兵力差を覆して上杉憲顕に勝利。
上杉憲顕は上野・越後の守護職を剥奪され、信濃へ追放されました。
しかし、1358年に足利尊氏が没すると状況が一変。
足利尊氏の子の足利義詮・基氏兄弟は、上杉憲顕を復権させます。
足利基氏は関東管領・畠山国清を討伐し、伊豆を上杉憲顕に与えました。
さらに宇都宮氏綱も討伐し、上野・越後も上杉憲顕に返しました。
居場所を失った河越氏を中心とする武蔵平一揆も挙兵したため討伐。
その領地の殆どを没収し、山内上杉家の権力が絶大なものとなりました。
秩父地方が版図に加わったのも、おそらくこの頃なんでしょうね。
この大事件に猪俣氏ら猪俣党の名前が登場しませんが・・・
存続していることから、上杉憲顕に味方したものと思われます。
戦国時代の猪俣氏
猪俣兵庫頭入道、猪俣兵庫六郎太郎以後はすっ飛びますが・・・
北条氏邦に従った猪俣範貞、猪俣直範が登場します。
猪俣氏は大須賀五郎左衛門と酒匂萓野で戦って負けたとされます。
その流れで「小田原落城の後」なので、1590年の出来事と思われます。
ここでは猪俣範貞は戦死、猪俣直範は松平加賀守に仕えたとあります。
両名の名前でググってもヒットゼロ
「松平加賀守」は、加賀藩4代藩主・前田綱紀を指すようです。
前田氏が松平姓を与えられたのは、3代藩主・前田光高の時でした。
これは、叔父の徳川家光から与えられたものです。
前田光高の官位は筑前守、子の前田綱紀の官位が加賀守です。
前田綱紀が藩主だったのは1645年から1723年の間です。
流石に3歳で継いだだけあって、かなりの長期政権ですw
話が逸れましたが、1590年の敗戦から55年後は流石に長いです。
前田光高が松平姓を与えられたのが1629年で、敗戦から39年後。
それでも長いですが・・・
これだけ年月を経てから仕えるという事は、普通あり得ません。
猪俣氏が属した鉢形城は、小田原征伐で北国勢に攻められました。
前田軍も北国勢として参戦しており、敗戦後にスカウトされたかもです。
猪俣氏の城だったと考えられています。
『新編武蔵風土記稿』の那賀郡猪俣村の項に登場します。
そこでは兵庫頭入道から猪俣の介と名乗って当地に住んだとあります。
「保元平治物語の猪俣範綱から6代」なので、室町時代初期と思われます。
観応の擾乱で登場する猪俣兵庫入道
『太平記』に猪俣兵庫入道の名が登場します。
1351年、上杉憲顕と宇都宮氏綱が戦いました。
これは、2人の関東管領・上杉憲顕と高師冬の争いが発端です。
足利尊氏に近い高師冬が、上杉氏の排除を目論み上杉重能を暗殺。
上杉憲顕が子の上杉能憲とともに挙兵し、高師冬を攻め滅ぼしました。
さらに、足利尊氏と対立する足利直義を鎌倉に招こうとしました。
そのため足利尊氏は宇都宮氏綱に命じて上杉憲顕を討伐。
この時の宇都宮方の武将の中に、猪俣兵庫入道の名が登場します。
(「隣国」武蔵から猪俣氏、安保氏、岡部氏が参陣と記されています)
宇都宮勢は圧倒的な兵力差を覆して上杉憲顕に勝利。
上杉憲顕は上野・越後の守護職を剥奪され、信濃へ追放されました。
しかし、1358年に足利尊氏が没すると状況が一変。
足利尊氏の子の足利義詮・基氏兄弟は、上杉憲顕を復権させます。
足利基氏は関東管領・畠山国清を討伐し、伊豆を上杉憲顕に与えました。
さらに宇都宮氏綱も討伐し、上野・越後も上杉憲顕に返しました。
居場所を失った河越氏を中心とする武蔵平一揆も挙兵したため討伐。
その領地の殆どを没収し、山内上杉家の権力が絶大なものとなりました。
秩父地方が版図に加わったのも、おそらくこの頃なんでしょうね。
この大事件に猪俣氏ら猪俣党の名前が登場しませんが・・・
存続していることから、上杉憲顕に味方したものと思われます。
戦国時代の猪俣氏
猪俣兵庫頭入道、猪俣兵庫六郎太郎以後はすっ飛びますが・・・
北条氏邦に従った猪俣範貞、猪俣直範が登場します。
猪俣氏は大須賀五郎左衛門と酒匂萓野で戦って負けたとされます。
その流れで「小田原落城の後」なので、1590年の出来事と思われます。
ここでは猪俣範貞は戦死、猪俣直範は松平加賀守に仕えたとあります。
両名の名前でググってもヒットゼロ

「松平加賀守」は、加賀藩4代藩主・前田綱紀を指すようです。
前田氏が松平姓を与えられたのは、3代藩主・前田光高の時でした。
これは、叔父の徳川家光から与えられたものです。
前田光高の官位は筑前守、子の前田綱紀の官位が加賀守です。
前田綱紀が藩主だったのは1645年から1723年の間です。
流石に3歳で継いだだけあって、かなりの長期政権ですw
話が逸れましたが、1590年の敗戦から55年後は流石に長いです。
前田光高が松平姓を与えられたのが1629年で、敗戦から39年後。
それでも長いですが・・・
これだけ年月を経てから仕えるという事は、普通あり得ません。
猪俣氏が属した鉢形城は、小田原征伐で北国勢に攻められました。
前田軍も北国勢として参戦しており、敗戦後にスカウトされたかもです。
所在地:埼玉県児玉郡美里町猪俣 GPSログダウンロードページ
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