2021/01/27
仲山城/埼玉県長瀞町
仲山城は、野上下郷の集落を見下ろす小山の上にありました。訪問日は2021年1月1日です。

①諏訪神社
まずは諏訪神社を目指しました。
訪ねる前はココにしかバイクを停められないと思ってました・・・w
せっかくの神社なので、二礼二拍一礼のご挨拶。
城キチらしく、お城所縁の神社での初詣となりました。
この神社、城を築いた人物が創建したそうです^^

①要所要所に案内があります
神社からは、集落内の細道を山の方へと歩きました。
地図では簡単そうでも、現地では「ここ通っていいの?」な所も。
ただ、そんな小心者の心を見透かすように、あちこちに案内があります。
しかも、距離まで書かれています^^

地理院さんの地図は、正確な所とそうでない所があります。
GPSアプリの背景にあると、どうしても描かれた線を頼りますが・・・
あくまで絵図だと割り切りましょうw

②山道へ
案内のおかげで、迷わず切通しまで進むことが出来ました。
しかし、唯一少しだけ迷ったのがココです。
案内は山に入った所にあり、そのまま真っすぐ登るようにも見えます。
でも道は無く、しばらく目を凝らしてキョロキョロしました。
正解は、切通しに沿って上がります。

③尾根
切通し沿いに進むと、今度は直角に曲がり尾根へと進みます。
ここいらはもう、迷いようが無いくらいに道がはっきりしています。

④虎口?
緩やかな尾根を進むと、突然岩の段差が現れます。
ここから、何となく人工的な雰囲気が感じられるようになります。

④虎口?
岩の段差は、右端から斜めに上がれるようになっています。
勢いづいて一気に攻め込めないような造りなんだと思います。

⑤堀切
上の写真の奥にも段差が写っています。
その足元には、浅いですが堀切があります。

⑤段差から見た主郭
堀切の上にもちょっとした段差があります。
大きな段差で敵の足を止め、上から迎撃する虎口のように見えます。

⑥説明板
四阿の左脇には、立派な説明板があります。
秩父のお城は歴史不明な所が多いので、これはかなり貴重です


⑥板碑
説明板のすぐ近くには、板碑が沢山あります。
秩父地方では、本当によく見かけます。
日本中にある板碑の半数が武蔵にあるそうです。

⑦主郭の南側
登って来たのと反対側は、緩やかな傾斜となっています。
その斜面を使って、数段の曲輪があったようです。

⑧堀切
すぐ下の曲輪との間の段差の下に、ココ最大の堀切があります。

⑧南側の曲輪
一段下の曲輪から、さらに下にも曲輪があります。
こっちの方が何となく主郭よりも広いような感じがします。
◆歴史◆
阿仁和氏の城と伝わります。
ググってみても、説明板以上の事はあまり出てきません。
内容を要約すると
・元北面の武士・阿仁和兵助が、神様のお告げに従い東国へ下向し
・上野国金山城主・新田義貞の家臣となり1312年に仲山城を築城
・1357年、2代目城主・阿仁和直家が秋山新九郎と戦って戦死した
といった感じです。
これだけだとザックリし過ぎて???ですが・・・
「諏訪神社」でググってみると、もう少し詳しいお話が出てきます。
麓の住人が記した『信仰利生鏡』に以下のように記されているそうです。
さすがは城主様が創建しただけあります^^
阿仁和氏は書の達人・橘逸成の9男が大和国阿仁和庄に移り始まりました。
その子孫である阿仁和兵助が、神様のお告げにより武蔵へ移住。
・・・そこん所もそっと詳しく知りたかったですが
武蔵では金山城主の新田義興に仕え、秩父小坂村に領地を与えられました。
そして1312年、仲山城を築きました。
普請役の名前まで記されていましたが、そこまではいいですよね?w
1357年、2代目の阿仁和直家が、秋山城主の秋山続照に攻められました。
理由は書かれていませんが、よそでは秋山城の侍女に思いを寄せたとか。
・・・戦になるので、その程度ではなかったと思いますけどw
阿仁和家の軍師が各地に砦を築き迎え撃ったそうですが・・・
阿仁和直家は敗れ、10月21日に討死しました。
奥方は、阿仁和直家の姉の嫁ぎ先である能登国まで落ち延びました。
その後、13回忌に当たる1369年に子や僧侶、旧臣を連れ供養に来ました。
この時に建てた板碑が残っており、これが日本最大なのだそうです。
・・・見て来ませんでした

「板碑」「最大」でググると、それが出てきます。
所在地:埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷 GPSログダウンロードページ
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