2021/01/26
長尾城/埼玉県秩父市
長尾城は、長尾景春が生け捕りにされた所と伝わります。訪問日は2021年1月1日です。

①瑞岩寺
長尾城は、瑞岩寺の背後にある岩山だとされます。
この岩山は「瑞岩寺の岩つつじ」として有名で、駐車場もあります。
せっかくなので、お寺の山門前から撮りました。
ブロック塀がちょっと気になりますが・・・
石垣に開いた虎口の奥に門があり、お城っぽい雰囲気があります



①瑞岩寺から登城口へ
岩山へは、お寺の左脇から登ります。

②登城口
登り口にはちゃんと案内があります。
前日に20km歩いたせいか、大した登山でもないのに体が軋みました。
体は「もう無理ぽ」と弱音を吐きますが、もう登り始めてます。

③四阿
そんな内部葛藤を抱えつつ、いつも勝つのは黒い方です。
ほら、もう登っちゃいましたw
四阿のあるここが二郭とされます。

③北側の道
四阿の北側に尾根が伸び、そこに堀切があるそうですが・・・
かなり昔に通行止めとなっています。
こちらには三郭や水堀があったと伝わります。

③北側
ただ、現在はゴルフ場が造られ、かなり消滅したとされます。
このゴルフ場辺りが大手口だったようです。

③四阿から見た主郭方向
四阿から南東方向にある高い所が主郭とされます。
日の出が7時くらいなので、7時過ぎに着くよう訪ねました。
初日の出見に来る人いると思ったからでしたが、ここで陽が昇りました。
山深い地域なので、その分日の出が遅れるんですね

あけおめブログで載せた写真は、ここの上空から撮ったものです。

④竪堀っぽい所
岩山は細長く、削平がしっかりしている訳でもありません。
冷え込む予報だったので、低地にあるこの城跡を訪ねました。
けっこう好きな長尾景春絡みのお城だったようですし。
なので遺構は期待しておらず、目を皿にして見つけたのがコレです。
岩山上の通行を妨げる効果は無いので、遺構ではない可能性大です


⑤主郭にある石宮
あっという間ですが、主郭とされる一番高い所に着きました。
やや草が多いですが、中心に祀られた石宮はしっかり拝めます。

⑤主郭から見た武甲山
主郭からは、南西に武甲山が威容を拝むことが出来ます。
秩父御嶽神社もあり信仰の対象なのですが、ガッツリ削られています。
長尾景春は、どういう思いでこの山を眺めたのでしょうか。
小さな城跡ですが、空の旅をお楽しみ下さい♪
◆歴史◆
長尾景春に関係がある城と伝わります。
史料には登場しないお城で、伝承が伝わるのみです。
長尾景春は、1476~80年まで続いた長尾景春の乱を起こした人物です。
関東管領・山内上杉家の家宰・白井長尾家に生まれました。
しかし、主君・上杉顕定は、力を持ち過ぎた白井長尾家を警戒。
長尾景信が没すると、家宰には総社長尾家の長尾忠景が任命されました。
これに反発した長尾景春は、当時戦っていた古河公方に通じて挙兵。
これが長尾影春の乱と呼ばれる大きな乱の始まりでした。
当初は鉢形城に拠りましたが、1478年に太田道灌に敗れ落城。
以後は長井城、塩沢城などを転々とし、1480年6月に熊倉城が落城。
瑞巌寺の岩窟に隠れていた所を生け捕りにされたと伝わっています。
これは『新編武蔵風土記稿』秩父郡巻之十八に記されています。
「黒谷村瑞巌寺」なので、場所としてはここで間違いなさそうです。
瑞岩寺の開基は1528年なので、この時はまだお寺はありませんでした。
それ以前は長尾景春の城の1つだった可能性が大です。
長尾景春は、乱で敗れた事により本貫地の白井城を没収されました。
捕らえられた後は古河公方を頼り、山内上杉家に対抗し続けます。
しかし、1505年に長享の乱が終結し、足利成氏と山内上杉顕定が和睦。
山内上杉顕定は、古河公方・足利成氏の次男を養子に迎えています。
上杉顕定の居城は鉢形城なので、長尾景春が秩父に居た可能性アリです。
ただ、もし居たとしたら、規模から考えて根古屋城かもしれませんが。
長尾景春の子・烏坊丸が隠れ住んだと伝わります。
長尾景春の子・烏坊丸が、奥方ほか27名と隠れ住んだと伝わります。
城主だったとする方もいますが、「忍住」する城主様はいないでしょうw
「烏坊丸」が誰なのか明確ではありませんが、長尾景英と考えられます。
長尾景英は乱の後も父に従いましたが、1495年までに袂を分かちました。
そして上杉顕定に従って、その家老となっています。
1528年、瑞岩寺が開基されました。
「上杉顕実の家老・長尾四郎左衛門昭国により開基された」と伝わります。
そのため、それまでは長尾昭国の居城だったのでは?という説があります。
ただし、「長尾昭国」が誰だったのかは特定されていません。
手掛かりは「1528年」「上杉顕実の家老」と「四郎左衛門」です。
まず「四郎左衛門」は、白井長尾家当主の名乗りです。
他の長尾家では総社長尾家が孫五郎、足利長尾家が新五郎です。
さらに高津尾長尾家も孫五郎、越後府中長尾家が弥六郎です。
歴代当主がそうなので、白井長尾家当主とみて間違いなさそうです。
次に「上杉顕実の家老」は、長尾景春か長尾景英のどちらかです。
長尾景春は上杉顕定に謀反を起こし、上杉顕実を連れて帰参しました。
長尾景英は上杉顕定の家老でしたが、永享の乱で上杉憲房を推しました。
1512年に上杉顕実が敗れ、家督を上杉憲房に譲り渡しています。
1515年には病没し、関東管領職も上杉憲房が継ぎました。
この後は、長尾景英が家老になったと思われます。
最後に「1528年」ですが・・・
長尾景春は1514年、長尾景英は1527年に没しています。
ただし、長尾景英が殺されたのは12月27日です。
開基直前だったとすれば、ギリギリありなのかもしれません。
とりあえずここが白井長尾家と所縁がある、という事で成果とします

所在地:埼玉県秩父市黒谷 GPSログダウンロードページ
埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント
無題
2021/01/26 05:53 by 青空さん URL 編集
Re:無題
下剋上ではありませんが、上杉家が山内と扇谷に分かれて争うきっかけにはなりました。太田道灌が活躍したのがこの乱ですので。
2021/01/26 17:55 by なぽ URL 編集