2021/01/25
寺山砦/埼玉県秩父市
寺山砦は、お寺の裏山にあった砦です。訪問日は2020年12月31日です。

砦跡へは、道の駅龍勢会館を目指します。
県道37号走ってれば、嫌でも目に付きますけどw
そこから北へ曲がり、カーブミラーの所で左折。
お墓の所で道が未舗装になり、そこから約200メートル進みます。
・・・と、よそ様のようにテキスト道案内してみましたw
詳しくは下の地図をご覧下さい^^

①ここから山へ
お墓の所から、道の右側はずっと山肌です。
しかし、登城口のある所でぽっかり空きます。
ここからこの中へ突撃しました。
写真見ても「え?ここから?」としか思えませんが・・・
知らない場所でどこでもそんな奇行をしてる訳ではありませんよ


①左側に石段
私は突っ込んでしまいましたが、左脇に石段があります。
先輩達はここから登ったものと思われます。

①谷が続きます
私はその石段に気付かないまま、真っすぐ谷底をばく進。
事前にチェックした「谷の左側」はただの斜面やん!と思っていました。

②谷の行き止まり
辛うじて谷底を歩いたものの、ついに行き止まりとなります。
目の前には高さ5メートル程の土の壁が立ち塞がります。
城キチには、そんなに高くない壁です(`・ω・´)p

③平坦地
獣の呼吸で上がった所は、とても広い場所でした。
かなり綺麗に削平されており、砦にしては整備されている感じです。
そんな平坦面が、2メートル程の段差を隔てて2面ありました。
物見と兵舎がセットになった、本格的な砦のようです。
上の軌跡でやたら間隔の広いのは、行きと帰りで反対側を歩いたからです。

④横から見た尾根
上の段の平坦面の奥には、土塁のような土の壁があります。
これは左右の山につながる尾根です。
地形をうまく利用し、土塁にしたっぽい感じがします。

④下から見上げた尾根
寺山砦は、この尾根を右に登った所にあります。
上の方が明るくて、城キチが今際の際に見る天国の階段っぽいです。

⑤1つめの堀切
そんな天国への階段の途中に、高さ3メートル程の段差があります。
そう簡単には天国へ行かせへんで!と、ここで審判を受けそうな感じです。

⑤1つめの堀切
ただ、足元には城キチの大好物の堀切があります。
これで油断させて、審判に異議を唱えさせない作戦のようです。

⑥2つめの堀切
1つめの堀切を登ると、目の前に2つめの堀切が現れます。
木の生え方が全然違うので、上の写真のリサイクルではありません。

⑦主郭
2つめの堀切を上がると、三角点のある小さな平坦面があります。
ここが主郭のようです。
砦というだけあって、かなり小じんまりしています。

⑧1つ下の曲輪
南側には1メートル程の段差があり、もう1段曲輪があります。

⑨2つ下の曲輪
2段目の曲輪から先端を覗き込んだら、まだ下に曲輪がありそうです。
しかし、陽が暮れそうな時間で、笹が密生してるので進まず。
南から攻め込まれるのに備えつつ、裏に大きなスペースがある砦でした。
◆歴史◆
不明!
砦としての記録はありません。
なので、周辺の出来事から推測するしかありません。
まずは、砦のすぐ南麓にある天徳寺ですが、1532年に開基されました。
曹洞宗のお寺ですが、ちょっと気になるのは金龍寺の末寺だという事です。
金龍寺は、金山城の横瀬氏(由良氏)の菩提寺です。
少し離れていますが、何かしらの交流があったのかもしれません。
横瀬氏と秩父が関わるとすれば、永正の乱(1510-12)でしょうか。
横瀬泰繁は山内上杉家の家督争いで、上杉憲房に味方し勝利しました。
その時に、秩父との交流が生まれたのかもしれません。
天徳寺が開基された1532年も、大きな動きがあった時期です。
今度は上杉憲房の実子と養子が家督を争った関東享禄の乱です。
1531年に決着がつき、実子の上杉憲政が勝利しました。
この時に横瀬泰繁がどちらに味方したか?ですが・・・
養子は古河公方の子だったので、上杉憲政に味方したかもしれません。
関与しなかったかもしれませんが・・・
すぐ近くに「吉田の盾」と呼ばれた龍ヶ谷城があります。
吉田の盾は久長但馬守の城で、1569年の武田軍との戦で活躍しました。
いち早く武田軍を発見した阿佐見氏が戦功第一とされました。
吉田の盾と連動し、武田軍を迎え撃つ砦だったかもしれません。
ただ、北に上がった城峯山には、武田軍の狼煙台がありました。
そちらを調べた時、吉田の盾だけでなく天神山城も武田軍の城でした。
一時的だったかもしれませんが、武田軍は秩父を占領したようです。
もしかしたら、狼煙台と連動して動く兵の詰め所だったかもしれません。
武田軍は秩父に侵攻した際「信玄焼き」として寺社を焼き払いました。
これは民衆に武田軍の恐ろしさを植え付けるためでしたが・・・
焼き払う寺社には、もっと立派にして建て直すと約束しています。
お寺を隠れ蓑にして、武田軍が伏兵を隠す基地だったのかもしれません。
・・・とまぁ色々あった地方なので、想像ばかりが膨らみます。
所在地:埼玉県秩父市吉田久長 GPSログダウンロードページ
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