2021/01/23
女部田城/埼玉県秩父市
女部田城も、なかなかの要害でした。訪問日は2020年12月31日です。

よく紹介されているルートは、真北にある温泉宿から登ります。
そのルートには、最大の難関である⑦の岩場が立ち塞がります。
そこを何とか回避したいと思い、大御所様のルートを辿ろうとしました。
しかし、よく読まずに「あぁ、こっちね♪」で突撃。
その結果やっぱり迷い、最悪の登城をしてしまいました。
グレーの線の⑤は斜面の直登なので、ここは通らないで下さいネw

①登城口のお墓
県道から側道みたいな細道に入り、その突き当りがココです。
途中で未舗装になりますが、踏み固まっていてバイクokでした。
ここから右上の段に上がります。

②左端を奥へ進みます
私は上の段に上がってからが???になり結局直登しましたが・・・
なので、下りて来たルートを逆に紹介します

上の段に上がったら、左端をひたすら奥へ進みます。

③谷間の右側を進みます
だんだん谷らしくなってきます。
かすかに残る踏み跡を辿って奥へ進みます。
途中崩れたりしていて途切れますが・・・
谷底よりも右側をキープする感じで進みます。

④ここを登り切ります
最後は、右斜め上へこの傾斜を登ります。
この写真は下る前に上から撮ったのですが・・・
「ほんとにココ?」という傾斜です。
まぁでも、さんざん山中を迷った最終決断でココを下りました。
結果オーライの大正解でしたけどw
ここを登り切ったら、平坦な山上を右へ進むと堀切があります。

⑤直登w
さて、ここは参考にならない所ですが・・・
お墓から上の段に上がり、さんざん迷った揚句ここを直登しました。
スマホで位置を確認したら、この真上が城跡だったので。
城キチは、切羽詰まったら真っ直ぐ登る生き物です(`・ω・´)

⑥尾根
そうして辿り着いた尾根です。
この尾根は南北に走っており、北側の麓にかおる鉱泉があります。
よく紹介される登城口はそっちです。
全体的に傾斜が緩そうで、こっちのルートの方が良さげです。

⑦岩の壁
ただし、こちらには最大の難所である岩場があります。
ここに立つと、これ以上\(゜ロ\)(/ロ゜)/無理!に見えます。

⑦岩の壁の右側
事前情報で、この岩場にはロープがあると知っていました。
ただロープがどこら辺にあるか、詳しく書かれておらず・・・
それでも「どこかにあるはず」で探したらありました^^
岩場の右側に回り込んで、堀切っぽく見える所です。
写っていますが、見えますか?

⑦垂れ下がる電線
見えにくかったので、引っ張って写しました。
これはロープというより電線そのものです。
掴まって登れますが、ツルツルで滑りやすいです。
足を滑らせたら、そのまま手も滑って落っこちます。
城キチたるもの、他人のせいにはせず自己責任で(`・ω・´)

1本登ったらまた1本という感じで、2、3回電線に頼ります。
岩場を越えたら普通の尾根で、ゴールは目の前に見えています。
傾斜がキツイので、気持ちは逸りますが足がついてきません



⑧2郭
尾根を登り切った所に、石宮のある平坦地が現れます。
ここが2郭です。

⑧眺め
ここから、北側の麓が見渡せます。
ここも籠って戦うというより、街道監視の城のようです。

⑧奥に続く尾根
2郭の奥に、もっと高い所へ通じる尾根があります。
もう見えていますが、上の平らな所が主郭です。

⑨主郭
一番高い所にある平らな場所ですw
土塁や虎口などはありません。
奥まっているので、ここに小屋があったかもしれません。

⑩上から見た堀切
主郭のすぐ後ろは、かなり急な傾斜になっています。
上から見るとこんな感じで、堀切があります。

⑩堀切から見た主郭側
いつもなら横からざっくり感を撮るのですが・・・
細尾根にあるので、横移動が出来ません。
空飛ぶ分身も、木々が邪魔で身動き出来ず。
こうして堀底から、見上げることしか出来ません。

⑩主郭側から見た堀切
この堀切は、岩をかち割って掘ったようです。

⑪堀切は二重です
険しいのと視界の悪さでわかりづらいですが、二重堀切です


⑪堀切
手前か奥からしか撮れないのが残念・・・

⑫平らな稜線
堀切の先も、それまでと同じように上の面が平らです。
城域がまだまだ続くのかと思いましたが・・・
ずっと平らな稜線でした。
帰りはあの岩場を通りたくなかったので、あちこち道を探しました。
南東の別の尾根には人の通った形跡が沢山あり、期待が膨らみました。
しかし、大きな岩の上にお地蔵様があるだけで、道は見つからず。
もう仕方が無いと戻り掛けて、④から①へ下るルートを見つけました。
大御所様のサイトをよく読めば、最初から迷わなかったのですが

◆歴史◆
後北条家の城でした。
直接的に女部田城について記載された史料はありません。
規模や構造などから、武州街道(現国道299号)の物見だったと思われます。
一般的には、北条氏邦の感状に記載された「野城」と推測されています。
この感状は山口總五郎宛で、松田肥前守を討ち取ったことを賞するものです。
松田肥前守は武田家臣で、感状の日付は1569年7月7日です。
この頃、武田軍が秩父に侵攻し、三山谷で後北条軍と戦となりました。
山口氏がこの城の城番だったかどうかは?です。
北条氏邦は、上吉田村の土豪たちに10人1組の番衆の編成を命じています。
(番衆十人ツゝ申付候)
これをもって「10人で女部田城を守るよう命じた」というのは?ですw
この中の1隊にそう命じたならそういう事になるのでしょうけど。
1562年に書かれた書状の宛名は山口上総守。
1569年の書状では山口総五郎。
1580年の書状は山口下総守となっています。
書状の主は北条氏邦なので、直接命じられる立場だった事になります。
所在地:埼玉県秩父市上吉田 GPSログダウンロードページ
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