2021/01/21
鷹谷砦/埼玉県小鹿野町
鷹谷砦も、堀底道のような道が続く尾根上の砦です。訪問日は2020年12月31日です。

鷹谷砦へは、国道299号線のココから脇道へ入ります。
訪問当日は寒波の影響により、一気に真冬並みの寒さとなりました。
国道なら大丈夫だと思ってタカを括っていましたが・・・
あともう少しという所で、路面凍結に出くわしました。
あと100メートル程だったので、そこからは徒歩で来ました。

①登り口
国道から入った脇道を道なりに進んで集落を抜けます。
右側に墓地があるのが、鷹谷砦のあった山です。
この少し奥に広い路肩があるので、車はそこに停められます。

①何も無い斜面を登ります
事前情報では確か墓地の脇から登るはずだったけど・・・
墓地の左奥はこんな感じで、登っても先に進めなさそうに見えました。
しかも、人が通った気配もありません。
土もポロポロしてますが、ここを登ります(`・ω・´)b

②掘った道
すると、下からは見えなかった堀底のような道が現れます。
お墓の前で「本当にココかなぁ???」と悩んでたのは無駄でした。
ただ、きちんと登り坂ではありますw

③最初の曲輪
割と間もなく、かなりまとまった広さの空間が現れます。
細長い尾根はたいてい上が丸っこいので、これ、完全に人工的です^^


③最初の曲輪
削平は甘いものの、これで自然地形はないですね!
最初に現れた曲輪ですが、かなりの長さがあります。

④最初の堀切
そして、最初の堀切様がいらっしゃいました

大きさはそれ程でもありませんが、形は美しいです^^

⑤2つめの曲輪
次の曲輪は、最初の曲輪と比べてきちんと整備された感があります。
あんまり真ん中がポッコリしてませんので。

⑥2つめの堀切
そしてまた、堀切様のご登場です。
割と平らだった尾根を、見事にザックリ割っています^^

⑦3つめの曲輪?
その先はこんもりしていて、曲輪ではありませんよね?
ぜんぜん平らではありませんし。

⑧3つめの堀切
でもまたすぐに、次の堀切様がいらっしゃいます。
心なしか、少しずつ深くなってる気がします^^

⑨4つめの曲輪
その先の曲輪が、一番広くしっかりしています。

⑩奥が高くなっています
広く大きかった曲輪の奥は、だんだんとしぼんで狭くなります。
そのまま緩やかな斜面となり、堀切様も現れなくなります。

⑪奥の高い所
もう通り過ぎたのかと思っていると、奥にひと際高い所が見えて来ました。
お城で言えば物見台のように、ココだけこんもりと高くなっています。
とりあえずはそこまで行こうと足を運びました。

⑫主郭?
こんもり高い所は、狭いながらも平らにされています。
そして、石碑と石祠が並んであります。
ここが鷹谷砦の主郭とされる場所です。
かなり狭いですし、守将もここに押し込められたら窮屈そうですが。

⑫プレート
左手前の足元に、このプレートがありました


⑫奥へ続く細尾根
ここから奥は、細尾根が続くばかりです。

⑫国道299号線
物見の砦と言われるだけあって、国道299号線がよく見えます。
下からこちらに気づいても、簡単には攻め寄せることが出来ません^^
入口がわかりにくかったのは、もしかしたら往時からでしょうか。
◆歴史◆
後北条氏の物見だったと伝わります。
『新編武蔵風土記稿』では、砦や城の存在に全く触れられていません。
地元住民の間でさえ、何も伝わらなかったという事だと思います。
これは、存在自体が秘密だったのかもしれません。
付近であった戦として、1569年の三山谷の戦が挙げられます。
・・・地名がまさにここら辺です。
これは武田軍が秩父に侵攻し、後北条軍が追い返した戦いです。
1568年12月、武田信玄が今川氏真との同盟を破棄し駿河へ侵攻しました。
そのため北条氏康は上杉謙信と同盟して牽制します。
一方の武田信玄も、佐竹氏・里見氏と連携して北条氏康に対抗します。
武田軍が秩父に侵攻したのは1569年6月です。
この時の在地武士達に対する北条氏邦の感状が残っています。
武田軍は秩父の寺社に火を放つ「信玄焼」をしながら鉢形城に迫ります。
秩父御嶽神社が焼かれたのもこの時だったんですね・・・
結局、この戦は武田軍が撤退して終わりました。
しかし、9月に武田軍は上野国碓氷峠から進軍して小田原城を包囲します。
有名な三増峠の戦いがあったのは、この武田軍が撤退する時でした。
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町三山 GPSログダウンロードページ
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