2021/01/20
塩沢城/埼玉県小鹿野町
塩沢城は、楽勝かと思ったら比高350メートルありました。ここも、長尾景春が立て籠もった山城です。
訪問日は2020年12月30日です。

城跡へは、午房バス停から脇道へ入り宇賀神社を目指します。
脇道は集落を抜けて山に入り、宇賀神社の方へ一度左折します。
この日はまだ暖かかったですが、翌日から真冬並みの冷え込みに。
おそらくもう、春先まで道が凍結しているかもしれません。

①宇賀神社
林道の終点にあるのが宇賀神社です。
入口の両脇にお狐様が座って居られます。
犬なら狛犬と呼ぶのですが、狛狐でしょうか?
気になり出すと止まりません。
狛犬は想像上の生物で、そういう固有名詞なのだとか。
お狐様はお使いなので、特に名前は無いようです。
なので、あえて呼ぶならお狐様で良さげです=^・^=
ちなみにこの神社、城の守りとして長尾景春により創建されたそうです。

①宇賀神社奥の宮
宇賀神社の真正面のここに車を停められます。
本殿の目の前に奥宮があります。
奥宮が遠すぎて、ここまで移されたのでしょうか?
いつもだと、遠く離れた山頂に祀られていることが多いです。

②山道
奥の宮の脇から、山中へと掘られた道が続いています。
こんな感じの堀底道っぽいのが途中まで続いています。
これやっぱり、城へ通じる道ですよね?
年に1か所見るかどうかですが、山梨の星山古城にもありました。
あちらは住民の避難所説が濃厚な山城でしたが。

③急斜面
堀底道っぽい道はここで終わり、土の壁が目の前に立ち塞がります。
うわぁ、どうしよう・・・と思っていると、じわっ、じわっと見えて来ます。
うっすらとですが、ジグザグに斜面を登った跡が見えて来ます。

ここから先が城域です。

④大きな平坦地
九十九折れでないと登れない急斜面の上には、大きな平坦面があります。
某大聖典だと、ここは「調馬場」という所に該当しそうです。
急斜面からこの平坦面に入る所に、虎口や土塁はありませんでした。
かなり広いので、大勢でここを守れそうです。

⑤下から見た段々になっている細長い平坦地
そこからは傾斜が緩く、幅の広い尾根が続きます。
あまりに幅が広く道が無いので、どこを進めばよいのか迷います。
なので、私は左端を登りました。
こういう所で怖いのは、どこから登って来たのかを見失う事なので。
そんな「どこを歩いたら?」な斜面を進むと、右上に伸びる尾根が見えます。
というか、感覚的に「ここ、右上に進むんだな」という感じになります。
ここも幅は広いのですが、うっすらと段々になっているのが見えます。
帯曲輪のような、自然地形のような、どちらともつかない感じです。

⑥細長い平坦地
まっすぐでは傾斜がキツイので、帯曲輪っぽい平坦面を横へ進みました。
削平は甘いですが、横移動なので少しずつ進みながら休憩な感じです。
そんな緩い帯曲輪状の所をジグザグに少しずつ上がりました。

⑦大きな平坦面
数段の帯曲輪状の段々のある尾根を登ると、きれいな平坦面に出ます。
ここが主郭だとする意見が多いようです。
すぐ下の帯曲輪状の段々のある斜面は、一気に駆け上がるのは無理です。
上から大人数で迎え撃つには、とても好都合な地形となっています。

⑦大きな曲輪から見た段々
先ほどの帯曲輪状の段々を上から見たところです。
段の端に柵を巡らせた絵を想像すると、立派な陣になりそうです^^

⑦上へ
さらにキツイ尾根が続いています。

⑧途中にある平坦地
尾根の途中には小さな段があります。
ここに柵を構えて、上から狙い撃ちにされると厄介ですネ!

⑨頂上の手前の平坦地
傾斜の急な尾根を登ると、踊り場のような平坦地に出ます。
ここ、ちゃんと綺麗に平らになっていますね


⑩いよいよ頂上?
一歩進んではズリズリ下がり、一歩進んではズリズリ下がり・・・
そんなもろい斜面を、滑らないよう踏ん張りながら登ります。
お城としての防御機構にあっても良さそうな攻めにくさです。

⑪頂上の手前
最後の尾根を登り切った所に、石碑が4つ並んでいます。
ここから山頂までは、緩やかな細い地形です。
写真見てもわかる通り、削平はされていません。

⑫頂上の曲輪
一番高い所を囲むように、石碑がカギ形に並んでいます。
某大聖典でいう「場の平という鐘撞場」はここのようです。
ここが主郭だとする先輩もいらっしゃいます。
曲輪って何だろう?と、悩みは深くなるばかりです


⑫頂上の先
一番高い石碑群の先は、一転して下りの尾根となっています。
ここを辿って山頂に行けるので、堀切でも無いか?と下ってみました。
上から見るとこっちからも攻められそうな恐怖に駆られそうですが・・・
何もありませんでした

◆歴史◆
1480年、長尾景春が籠城し落城しました。
長尾景春は、関東管領・山内上杉家の家宰・長尾景信の子です。
当時の山内上杉家は古河公方・足利成氏と20年ほど争っていました。
1476年に長尾景信が没すると、上杉顕定は長尾忠景を家宰としました。
これに反発した長尾景信の嫡男・長尾景春が、謀反を起こしました。
・・・有名な乱ですし、詳細は割愛します。
1478年7月に鉢形城が陥落し、長尾景春は児玉郡や秩父郡で抵抗。
なぜ上野国じゃないんだろう?と思ったら、秩父が領地だったんですね。
長井城陥落などを経て、長尾景春は塩沢城に籠城しました。
1480年1月、塩沢城が攻め落とされました。
島村近江守と小沢左近が、大谷沢から夜討ちをかけたとされます。
両名とも付近の地頭のため、長尾景春の家臣だったはずです。
大谷沢から攻めたため、以後は夜討沢と呼ばれるようになりました。
夜討沢は南東の小森川沿いにあり、そこからとなると大回りです。
四阿屋山を越え、稜線沿いに進軍して来たことになります。
城内へは一番高い所、つまり背後から奇襲を受けたという事ですね。
こっち側から攻められたらひとたまりもなさそうです。
塩沢城の陥落後、長尾景春は「日野要害」へ移り抵抗を続けました。
これが熊倉城という説と、日尾城という説とがありますが・・・
熊倉城の方の伝承として、1480年6月に水の手を絶たれ落城。
『新編武蔵風土記稿』では瑞巖寺の岩窟で生け捕られたとあります。
長尾景春はその後古河公方・足利成氏を頼り、再起を図ります。
その後の塩沢城については記録がありません。
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄 GPSログダウンロードページ
埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント