2021/01/10
リュウガイ城/埼玉県飯能市
リュウガイ城は、稜線上に築かれた登城路のわかりにくい山城です。訪問日は2020年12月29日です。

埼玉県の「りゅうがい」シリーズ第二弾は、片仮名りゅうがいです。
一番よく紹介される登城路は、南側の材木店付近からのものです。
他にも北側からは丸太橋を渡った所からほぼ直登というルートもあります。
天邪鬼の私は「往時は峠から稜線上を辿ったのでは?」と推測。
まだ誰も紹介していないようなので、チャレンジして来ました。

①舗装路の終端
北側の川沿いの道を進むと、やがて「この先行き止まり」が現れます。
この付近で左側の大きな路肩にバイクを停め、ここからは徒歩です。

②天神峠への道
アスファルトの舗装も間もなく終わり、砂利道となります。
その砂利道を進むと、今度は通行禁止が出てきます。
ただし、下に小さく「自転車・歩行者を除く」と書かれています。
その文字が余りに小さいので、本当は通って欲しくないように見えます。

②天神峠への道
やがて道は、縦にパックリ割れています。
確かに自動車はダメですが、自転車も厳しそうです。

②天神峠への道
さらに進むと、今度は倒木が道を塞ぎます。
自転車アウトですよねw
ただ、城キチにとっては日常的な光景です。
一部「そんなことない!」という意見も飛んで来そうですが・・・w
ここは、右側に避ければ通ることが出来ます。

②天神峠への道
荒れた道はやがて勾配も急になり、倒木の数も増えていきます。

③天神峠
そんな障害物もなんのその!
辿り着いた天神峠は、ザックリ掘られた切通しです。
人工的に掘られた尾根を見ると、城キチの心がザワザワします


③天神峠
ここまでは西へ進みましたが、峠からは東へ方向転換します。
稜線上に登れそうになかったので、送電鉄塔への道を進みます。

③天神峠付近の鉄塔
もうちょっと距離があるかと思いましたが、思いのほかすぐに着きました。
ここから先、人が通った形跡が見当たりません。

③鉄塔の裏
まぁでも、稜線に上がらないと何も始まらない!
ということで、鉄塔背後のここをよじ登りました。

鉄塔背後では道はありませんが、稜線上を進むとやがて道が現れます。
ここから城跡までは、きれいな道のアップダウンが続きます。

稜線上なので、頂上に上がっては下り、上がっては下りを繰り返します。
やや広めだと「ここ、かな?」とキョロキョロするも城跡らしさゼロ。
そんなぬか喜びを繰り返し、何度めかのピークがリュウガイ城です。

ようやく城内へ突入!

④二郭
再び現れたピークに「今度こそ」と思いながら登りました。
登り切ると右脇が細長い平坦地で、それまでとは様子が違いました。
ここがリュウガイ城の二郭です。
先輩たちよりも遠回りに見えるルートですが、40分で着きました^^

④主郭の城塁
二郭を進むと、土の壁に行き当たります。
この壁の上が主郭です。

④主郭と二郭の間の堀切
土の壁の手前には、例によって堀切があります

これがあったら、着いたと確信が持てます。

④堀切から見た主郭の虎口
堀切から主郭側を見ると、かすかに歩いた跡が見えます。
見た感じでは往時の虎口ではなく、近世の山歩きで出来た跡に見えます。
ただし現状は、倒木が通り道を塞いでいます。
これくらいならエイ、ヤっと乗り越えられますが・・・
本来の通路ではなさそうなので、主郭左脇を回り込みました。
城塁に沿って、人ひとりがやっと通れそうな道が続いています。

⑤主郭の東側の城塁
主郭脇を進むと、やがて主郭の城塁が引っ込みます。
引っ込んだ城塁に沿って進むと、堀切様が現れます。

⑤主郭の東側の虎口
堀切から主郭側を見ると、今度はかなりはっきりした虎口があります。
近道で通ったような直線ではなく、虎口らしくクネっとしています。

⑤主郭内部
虎口を上がった所から見た主郭内部です。
峠から何度も越えてきたどのピークよりも、広く平らに整備されています。

⑤主郭にある城址の標示
上の写真の真ん中に写っていますが、中央にこれがあります

道もはっきりしない山城で城跡を示す物があると、とても嬉しくなります


⑥主郭東側の曲輪
堀切の東側は木が茂っているものの、ちょっとしたスペースがあります。
ここも曲輪だったようで、南脇へクネっと曲がってから尾根に下ります。

⑥東側尾根にある小さな曲輪
城から東側の尾根は、鞍部まで30メートルほど下ります。
その途中にも、踊り場のような小さな段があります。

東側の鞍部から見た次のピークです。
先輩方が紹介されているルートで下ってみたいと思いましたが・・・
我慢できずにこのピークの北側の尾根から下ってしまいました。
もちろん道は存在せず、最後は急斜面を滑り降りる力技となりました。
そのため、下の地図では参考にならない部分をグレーにしています。
帰宅後に先輩方のルートを見ると、次のピークから下りられそうでした

◆歴史◆
不明です

南側を通る県道70号線が鎌倉から信州へ通じる街道だったそうです。
そのため、この街道を監視するために築かれたものと推測します。
南東麓にある星宮神社の棟札には1571年に再興した時のものがあります。
そこに登場するのは加治修理大夫、岡部小次郎佐、久林民部少輔です。
おそらく、原市場周辺を治めていたのが彼らだと考えられます。
加治修理大夫がどのような人物だったのかは?です。
加治氏は丹党の一族で、秩父郡領となり次第に名栗川沿い勢力を拡大。
一族には、小田原城で後北条方として籠城し大奮戦した中山家範がいます。
岡部小次郎はおそらく、岡部忠吉のことと思われます。
岡部忠吉は、1571年に星宮神社を再興した時は29歳か30歳です。
居城を後北条軍に攻め落とされ、幼年の父親が赤沢に移住します。
成人して岡部忠秀となると、後北条家重臣の松田氏に仕えました。
その後、御舘の乱で上杉景虎の援軍に赴き越後で戦死しています。
岡部忠吉は、1590年の小田原征伐で寝返った松田憲秀に従っていました。
松田憲秀は戦後切腹となり、岡部忠吉がその介錯を務めています。
その後は高野山に行きましたが、徳川家康に招かれ旗本となっています。
久林民部少輔は・・・
久林氏は赤沢の土豪だった、ということしかわかりませんでした

所在地:埼玉県飯能市原市場 GPSログダウンロードページ
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コメント
無題
2021/01/11 05:23 by 青空さん URL 編集
Re:無題
徳川家康は北条家臣だけでなく、武田家臣も多く受け入れています。そのおかげで武田旧臣が活躍し、甲斐・信濃の大半を手に入れました。後北条家は関東全域を支配していたので、統治をスムーズに移行しようとすれば、後北条旧臣の協力は不可欠だったと思われます。
2021/01/11 10:18 by なぽ URL 編集