2021/01/08
大築城/埼玉県ときがわ町
大築城は、大きな堀切が連続する山城です。訪問日は2020年12月26日です。

大築城の登城路でメジャーなのは、東側の住吉神社付近からのものです。
北西の椚平バス停からのルートもあるそうですが・・・
私は天邪鬼なので、もっと楽に登城出来るルートが無いか探しました。
マイナーかつ楽な登城路探しも、訪問前の楽しみの1つなので♪

①西側の舗装路終端
私が目を付けたのは、西側の舗装路からのルートです。
城キチ諸兄のレポートは(たぶん)ありません。
しかし、町が紹介する城山ハイキングのコースではあります。
舗装路がどこら辺までなのかは?でしたが・・・
バイクである程度標高稼げる!ということで行ってみました。
路面は良好で、終点まで美道専用バイクで乗り付けることが出来ました^^
舗装路の終点からは車両通行止めで、2、3台なら車も停められそうです。

①西側の山道の入口
ここから10メートル程先に、右側の山に入る道があります。
やや不明瞭ですが、写真中央奥の木の根元に小さな立て札があります。
ここから稜線までジグザグに上がる道があります。

稜線まで上がると道が分岐しており、大築城の案内があります。

②分岐
上の案内から細い土橋状の所を通ると、再び道が分岐します。
左斜めが大築城と案内があり、私はそちらへ進みました。
天邪鬼なのに・・・
踏み跡の強化版な感じで傾斜がきつく、大築城の主郭に通じています。
そこには虎口は無く、そのまま上がる感じです。
他の部分の構造から、往時は道が無かったようです。
写真の分岐をまっすぐ進むと、モロトノ郭に通じています。
そこから城内へ上がる方が、足元も良く歩きやすいと思います。

③東側のハイキングコース入口
よく紹介される登城口は東側の麦原集落・・・かと思ったら違いました

ちょっとだけホッとしたかもw
麦原集落の端っこからも、大築城へ行ける道があります。
その山道は「城山ハイキングコース」で、よく見ると案内があります。
駐車場はありませんが、入口に車1台なら突っ込めそうです。

④途中の開けた場所
ハイキングコースだけあって、道はとても歩きやすいです。
ただ、1か所だけ注意が必要な所があります。
それが④の所です。
きれいでハッキリした道ですが、ここは開けた空間になっています。
下草が無いのでのっぺりしていて、どこが道なのか見失います。
なぜか、ここだけは案内がありません。
私は下ってから登ったのでわかりましたが、下から見て真正面が道です。

⑤モロトノ郭
さて、登城路の紹介はココまでにして、城内を下からご案内します。
まずはモロトノ郭から。
西から東への城山ハイキングコースは、モロトノ郭につながっています。
ここは道の分岐点にもなっていて、とても賑やかです


⑤モロトノ郭
その脇に広がる平坦地がモロトノ郭です。
奥へ奥へと細長くなっていて、南側にクネッとした標示があります。
詳細不詳ながら、名前からここに毛呂氏が居たと考えられています。
毛呂氏は、武蔵国ではいち早く後北条家に鞍替えした一族です。
そのため両上杉軍に制裁的攻撃を加えられた程でした。

⑥竪堀
モロトノ郭から大築城方向への道を進むと、道端に黄色い札があります。
文字は消えてしまっていますが、斜面を一直線に上る窪みがあります。
これが、縄張図に描かれている竪堀です。
かなり浅くなってしまっていますが・・・
ここを道と間違えてまっすぐ登る猛者もチラホラいらっしゃるようで・・・
マジック持ってたら、黄色いお札に「竪堀」と書きたくなります


道を進むと、再び案内が現れます。
モロトノ郭から上がって来た場合、城跡は左斜め手前に進みます。
そのまま真っすぐ進むと、小築山へと至ります。

⑦土の壁
城跡側は傾斜がキツクなり、目の前に土の壁が現れます


⑦堀切
山城で土の壁に遭遇したら、その下には堀切様がいらっしゃいます

ココの堀切は規模が大きく、大名どうしの戦に備えたように見えます。

⑦上から見た1つめの堀切
土の壁の上から見た堀切です。
堀切様は、下から見ても横から見ても上から見てもお美しいです


⑦2つめの堀切
そんな堀切様がもう1人、奥に控えていらっしゃいます

写真だけだと見分けがつかないですが、こんな段差が2つ続きます。

⑧堀切の上の段へ上がる虎口
堀切から左脇の道を上がると、横っ腹から入る虎口があります。

⑧堀切の上の段から見たところ
上から見ると、眼下に大きな曲輪が広がっています。
下ではこんな風には見えなかった気がしたのですが・・・w

⑧さらに上の段に上がる虎口
横っ腹虎口から入った曲輪は、直角左に曲がって右隅に虎口があります。

⑧虎口から振り返ったところ
左手前横から入り、直角に曲がって右奥に入る・・・
かなり大きな枡形虎口のような曲輪です。

⑨主郭の虎口
桝形っぽい曲輪からまっすぐ進むと、もう1段高い曲輪があります。
この上が主郭です。
下から上がって来ると、結構いろんな仕掛けがありました!

⑨主郭にある説明板の図 拡大表示
縄張図が載っている豪華な説明板が、虎口のすぐ上にあります。
あるだけでとても貴重ですが、ちょっとわかりづらいかも。
文句ばかり言ってますが、このレベルですら私には描けません


⑨主郭内部
主郭は、下の段と比べてかなり広いです。
東西に長い山頂なので、曲輪の形もそんな感じです。

⑨主郭西端
主郭先端部は、低い土塁があるような無いような、です。
ノッペラボウな立て看板に、昔何が書かれていたのか気になります。

歩いたルートの内の城内部分です。
私は堀切を行ったり来たりするので、その形がハッキリ出てます^^
間の曲輪だったり土塁も行ったり来たりで、見分けがつきませんが

主郭西端から出る道は、地図で見る程ハッキリとはしていません。
◆歴史◆
上田朝直により築かれたと考えられています。
上田朝直は、、、最近連続して登場しますねw
1546年の河越夜戦の後、太田資正から松山城を預かりました。
しかし、松山城を預かったまま後北条家に寝返ります。
大築城を築いたのは、慈光寺を攻めるためだったとされます。
慈光寺は飛鳥時代に開基された天台宗の寺院で、武蔵有数の大寺院でした。
源頼朝が奥州合戦の戦勝祈願をし、1200町もの領地を寄進しています。
地域の信仰も厚く多くの僧兵を抱えていたようで・・・
室町時代になると、太田道灌にも攻められたことがあるようです。
上田朝直が慈光寺を攻めたのは、1546年から1556年の間とされます。
扇谷上杉家にも後北条家にも従わなかったんですね。
後北条家が扇谷上杉家を滅ぼし、武蔵で勢力を拡大中の時期でした。
慈光寺は今でもあるお寺ですが、七十五坊の殆どが残っていません。
いつ無くなったのか不明ですが、戦国時代に焼かれた説が有力です。
(『慈光寺略誌及び伝』に上田朝直が攻めたと記述があるようです)
慈光寺に記録が残っていないのは、1590年にも攻められたからです。
豊臣軍が拠点にするのを恐れ、松山城主の上田能登守が焼いたとされます。
「能登守」は上田朝直(1582年没)、上田長則(1583年没)の2人。
1590年当時の松山城主・上田朝広(憲定?)は「上野介」でした。
真偽の程は?ですが、上田氏が慈光寺を警戒していた事は確かなようです。
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平 GPSログダウンロードページ
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