2021/01/05
青山城/埼玉県小川町
青山城は、綺麗な道があるのに直登してしまった山城です。ここも2013年11月以来、2度目の訪問です。
訪問日は2020年12月26日です。

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まずは登城路です。
青山城も登城ルートがたくさんあります。
私は天邪鬼なので、あまり紹介されてない所から登りました。

①割谷遺跡の駐車場
地図を見ていると、南東側の割谷遺跡からの道が描かれています。
駐車場もあるし、直線距離も近い!
山登り大嫌い、でも、山城大好き!な城キチ向けだと思いました。

①割谷遺跡
割谷遺跡は、武蔵屈指の板碑制作場でした。
大きな平場もあり、遺跡の範囲を示すロープが張られています。
ここでは、小倉城で見た布積みの石垣も見られます。
国土地理院の地図では、遺跡からの道が描かれています。
現地では「行き止まり」と書かれた辺りから伸びています。
奥まで進んでみると本当に行き止まりで・・・
GPSでルートを辿った結果、ただの藪掻き直登になりました

地図に描かれていた道は、今は消失してありません


②割谷側の登山道入口
割谷側からは、遺跡の前を通り過ぎた所に登山道の入口があります。
こんな感じで道端に「仙元山」の案内が出ています。
こちらは道がハッキリしていますが、いわゆる普通の山道です。
傾斜あり、凸凹ありですが、迷わず上まで登れます。
こちら側の入口は、山道を下りてきて見つけました


③青山登山口
青山城の登城路で最もメジャーなのが、③の青山登山口からです。
このルートが一番整備されていて、傾斜もそれ程キツクありません。
ただ、1箇所注意が必要なのが④の所です。

④要注意の分岐
国土地理院の地図では道が描かれ、青山城への近道に見えます。
しかも、見た感じはちゃんとした道があるように見えます。
GPSなんか持ってたら、ほぼみんな真っすぐ進みたくなりそうな感じです。
7年前に初めて青山城を訪ねた時、私はこっちの道へ進みました。
しかし道は途中で無くなり、谷あいの低木を掻き分けて登りました

ここでは大人しく「仙元山」の方へ進んで下さい。
稜線に出た所で青山城の案内が出てきます。

稜線上の道はほぼ平坦で、青山城の案内がそこかしこにあります。

⑤三郭下の堀切
ハイキングコースが上り坂になって間もなく、道端に堀切が現れます。
ここからが青山城の城域となります。
このザックリ感、たまりません


⑤三郭
堀切の脇から上がった所が三郭です。
曲輪とは言っても幅は4メートル程しかない細長い平坦地です。
堀切の真上にあり、入口を守る場所だったようです。

⑤三郭と主郭の間の堀切
三郭の奥には段差があり、その手前も堀切になっています。
こちらの方がずっと規模が大きいです。

⑥主郭
堀切脇の道を上がると、かなり広い場所に出ます。
ここが青山城の主郭です。
目だった虎口は無く、上がるとそのまま平坦地となっています。
右奥には土塁が見え、その手前に白いアイツがいらっしゃいます


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白いアイツに載っている図です。
木漏れ陽の差す最悪の条件でしたが、何とかここまで加工出来ました。
こうしてみると、曲輪の配置は小倉城と同じに見えます。

⑥説明板の背後の外側
説明板の背後には、草を掻き分けて歩いた跡があります。
縄張図には一番上になにやらごにょごにょっと描かれたものがあります。
そこには半月型の窪みがあり、虎口のような感じがします。
形がはっきりしないので、横堀のようにも見えますが・・・

⑦主郭南端
広い主郭の一番奥です。
こちら側も虎口ははっきりせず、低い土塁があるだけです。
道は歩きやすい所を歩いた踏み跡っぽい感じに見えます。

⑦堀切
主郭南端から下りた所が、緩い鞍部のようになっています。
草木に覆われて形が分かりにくいですが、堀切があります。
ちょっと変則的で、右手前に竪堀が1本あります。

⑦堀切左側
堀切をなぞろうと左側へ下りると、ちょっと欠けた所があります。
まるで虎口のようですが・・・

⑦堀切から始まる帯曲輪
そこから、斜面に付けられた広い道のようになっています。
縄張図では帯曲輪とされますが、犬走りのようにも見えます。

⑧二郭
二郭内部は草木が刈られておらず、標示が無いと道にしか見えません。
私は形や大きさが知りたかったので、草木を掻き分け外周を歩きました。
すれ違う人が居たら「アイツ何やってんだ?」って思われそうです


⑨二郭南端
二郭の南の端は、急坂に階段が付けられています。
その先は多少凸凹はありますが虎口は無く、そのまま道になっています。

⑨二郭南端
この山道は遊歩道で、間に物見山を挟んで小倉城まで続いています。
往時からこの道があったのかどうかがとても気になります。

⑨二郭南端
階段を下りると、脇にまっすぐな窪みがあります。
この窪みも草木で埋もれていますが、掻き分けると二郭内部へ行けます。
歩いて見た感じでは、本来の虎口はこっちの窪みだったようです。

⑨二郭南端から分け入った帯曲輪
虎口っぽい所周辺は、草木が茂るものの割と平坦です。
その端っこまで行くと、二郭に沿って帯曲輪があります。
そのまま進むと、⑦の堀切から始まる帯曲輪とつながっていました。

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青山城内を歩き回った軌跡です。
国土地理院の地図は絵図に見えますが、こうして見ると超正確です

描かれている山道が無くなってることが多々ありますが・・・w
◆歴史◆
築城時期は不明です。
史料に登場するのは『関八州古戦録』だけのようです。
そこには
「松山城へは上田安楽斎、同上野介朝広を環住なさしめ
青山、腰越の両砦と共に堅固に相守らせ・・・」
とあります。
これは1563年の出来事だそうです。
上田安楽斎は上田朝直、上田朝広はその次男・上田憲定と思われます。
「環住」は「一度去った所に戻って暮らす」という意味です。
上田朝直は1546年の河越夜戦後、太田資正に松山城を預けられました。
しかし、上田朝直は松山城をそのまま借りパク。
太田資正と敵対していた後北条家に転がり込みました。
1559年、長尾景虎が関東に攻め込むと、上田朝直は再び鞍替えします。
まぁ、関東の元上杉家臣はほぼ同じ行動とりましたけど・・・
長尾景虎は1561年、鶴岡八幡宮で関東管領に就任し上杉政虎となります。
この頃に、松山城が太田資正の城となります。
借りパクを咎められ、返却させられたものと思われます。
関東を席捲した上杉政虎ですが、武田晴信と川中島で戦うようになります。
松山城を返した後の上田朝直がどちらの陣営に属したのかが?ですが・・・
Wikipediaだと上杉軍が越後に帰った後、後北条家に帰参したそうです。
そして1563年、後北条軍と武田軍の連合軍が松山城を攻略。
上田朝直が松山城を守ったのは、太田資正の反撃に備えたものと思われます。
上田朝直はその後、松山城ではなく本貫地の秩父に居たそうです。
1569年の三増峠の戦で功を挙げ、松山城に復帰することが出来ました。
以後、1590年に後北条家が滅びるまで、上田氏が松山城の城主でした。
もし使い続けていれば、青山城は上田氏の城だったと思われます。
しかし、史料での登場のしかたからすると、陣城だったかもしれません。
所在地:埼玉県比企郡小川町青山 GPSログダウンロードページ
埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント
無題
2021/01/06 06:01 by 青空さん URL 編集
無題
また機会があれば狙いたいと思います。
2021/01/06 06:57 by syunpatsuryoku1号 URL 編集
Re:無題
武蔵は元々扇谷上杉家の国でしたが、河越夜戦で滅びました。その後は山内上杉家と古河公方、後北条家の三つ巴となり、山内上杉家が越後の長尾景虎を呼び込んだ事で均衡が崩れます。上杉旧臣は義理から越後軍に味方しますが、冬になり退却すれば後北条家に戻るといったことを繰り返しました。
2021/01/06 20:44 by なぽ URL 編集
Re:無題
駐車場は、今回は紹介しなかった北の「仙元山見晴らしの丘公園」にもあります。そこから仙元山の頂上を横目に稜線を城跡まで辿るルートもありますよ^^距離はありますが、比高はあまりないかもしれません。
2021/01/06 20:46 by なぽ URL 編集