2020/11/28
大野城/佐賀県太良町
大野城は、佐賀県にもありました。訪問日は2019年2月10日です。
お休み宣言しましたが、探したら書けそうな所を見付けました。
あと2つだけですが、最後の悪あがきをします。

①登城口
大野城へは、スタンプ集めで飛び回ってた時に寄り道しました。
立ち寄ったのは、それなりにソソル魅力があると思ったからです。
登城口付近の路肩がとても広く、車を停めるのに助かりました。

①登城口
上の写真にもチラっと写ってるココが登城口です。
この白い標柱を見つけられれば、迷子になる心配はありません。

②南側尾根
城跡は、このまっすぐな尾根の上にあります(`・ω・´)

②南側尾根の畝状竪堀
ただし、この尾根は正面ばかり見ていてはイケマセン。
斜面がこんな風に波打っているのは、城キチの貴方ならわかりますよね?

③尾根を登り切る直前
その付け根がココです。
尾根の先が、壁に塞がれているようになっています。
ここから竪堀が放射状に伸びています。

③主郭南端の切岸
この土の壁は主郭の切岸です。
よく見ると、切岸に沿って足元が少し窪んでいます。

③主郭南端下から伸びる竪堀
そんな小さな堀切が、斜面を真っすぐ下る竪堀となっています。

③主郭南端の下
切岸の上には、左側から回り込んで登ることが出来ます。
山城ばかり訪ねていると、これが道に見えてくるようになります


④主郭南端の櫓台
回り込んで上がった所から元来た方向を見ると、少しこんもりしています。
堀切の手前は土塁があるものですが、ここには櫓台がありました。
櫓台の上はちょっとした広さがあり、石宮が祀られています。

④主郭南端の櫓台
櫓台の上から堀切を見下ろすとこんな感じです。
槍がチョットだけ届かず、上から弓矢で迎撃するのに丁度良さそうです。

⑤主郭内部
櫓台から北側はこんな感じです。
私のブログで一番よく見かける光景です


⑤主郭西側の土塁
大野城は単郭のお城だったそうで、西側には低い土塁が残っています。

⑥主郭北側の段差
南北に長い主郭を北へ進むと、1メートル程の段差があります。
ここから北へ、3段の小さな段が連なります。

⑥主郭北側の段
ここまで平らだと、100%人の手入ってますよね(*´▽`*)

⑦主郭北端から見た小さな段
端っこから北側を見ると、3メートル程の段差になっています。

⑦北側の小さな段差1つめ
段差の足元には、お約束の浅い堀切が残っています。

⑦北側の小さな段差2つめ
小さな段差が2つ続き、下の段の足元にも浅い堀切があります。

⑧北側の尾根
3段目の小さな段から先は、北へ真っすぐ尾根が下ります。

⑧北側の尾根
ただし、北側の尾根は、こんな感じで大きな石が転がっています。
何となく組んであるように見えたり見えなかったり・・・

何となく書けそうだと思ったのは、GPSログが残っていたからです。
そんな在庫が2か所だけありました。
感性のままに撮るので、写真だけ眺めてもどこだったか?になります。
一度文明の利器に頼ると、手放せなくなってしまいます

◆歴史◆
沖田畷の戦の際に、龍造寺軍が守っていました。
沖田畷の戦は1584年春にあった、龍造寺軍と有馬・島津軍の戦です。
この時、鍋島直茂が家臣の下村生運に大野城を守らせました。
下村生運は「鍋島の三生」と呼ばれる、三人の側近の一人です。
ネットで出てくるのは、せいぜいこれだけです

沖田畷の戦
龍造寺隆信が有馬晴信を攻めた戦です。
超有名な戦なので、ザックリ書きます。
有馬晴信は龍造寺隆信に降伏して従っていましたが・・・
独立の動きを見せたため、龍造寺隆信が出陣しました。
有馬晴信は島津軍に援軍を求めました。
島津義久は、弟の島津家久を援軍として向かわせました。
島津軍も大友軍と戦っていたので、兵力はわずかでした。
龍造寺隆信の義弟・鍋島直茂は、島津の援軍を警戒しました。
そのため、兵糧が尽きて島津軍が退くのを待つ作戦を提案します。
しかし、龍造寺隆信はこの案を却下して一気に攻めました。
鍋島直茂が下村生運に背後を守らせたのは、嫌な予感がしたからでしょうか。
戦場は、森ヶ岳城(=島原城)の北にある湿地帯です。
森ヶ岳城に本陣を置く有馬・島津連合軍を、北から龍造寺軍が攻めました。
島津軍は小さな戦闘を繰り返しながら、龍造寺軍を湿地帯に誘導します。
これが島津軍の得意技・釣り野伏です。
湿地帯には細い道が1本しかなく、大軍だとどうしても間延びします。
ここを攻められ、龍造寺隆信が島津軍に討ち取られました。
所在地:佐賀県藤津郡太良町大野 GPSログダウンロードページ
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