fc2ブログ

橘城/香川県三豊市

橘城は学校の裏山にありました。
訪問日は2018年8月5日です。

橘城【1】
①登城口

学校の裏山ですw
学校の運動場が運動公園にもなっていて、広い駐車場があります。

橘城【2】
①登城口にある説明板の図 拡大表示

登城口には立派な説明板があります。
せっかくなので、皆様にもご覧頂けるよう載せます♪
平たく言うと、パクリます。

橘城【3】
②遊歩道

場所が場所なので、とてもきれいに整備されています。
往時がこんな風だったとはとても思えませんが・・・

橘城【4】
③南側の四阿

小学校側の中腹に、少し広い踊り場的な空間があります。
普通だったら腰曲輪だと思いますが、上の縄張図にはありません。
近世の改変でしょうか?

橘城【5】
③四阿付近にある説明板 拡大表示

四阿から先の道端にも説明板があります。
こちらは北を向いているので、北が上の縄張図が載っています。

橘城【6】
④主郭虎口

登り切ると、虎口から神社が見えます。
こちらは縄張図に描かれているので本物ですね^^

橘城【7】
④主郭内部

主郭は広々としていて、お祭りが出来そうな安定感があります。
周囲を土塁が囲んでいる様子も写っています。

橘城【8】
④主郭を囲む土塁

その土塁です。
高低にバラつきがあり、ちょっとだけ途切れている所もあります。
途切れている所は、藪深い山城だと虎口と勘違いしそうな感じです。

橘城【9】
⑤南西の腰曲輪

土塁に沿って外周を歩いていると、南西に伸びる腰曲輪が見えます。

橘城【10】
⑤南西の腰曲輪

大した傾斜ではないので下りると、付け根に浅い堀切が見られます。
これだけ整備された山城でも、一歩外には手付かずの遺構があります^^

橘城【11】
⑤南西の腰曲輪

先程は城塁をそのまま真っすぐ下りましたが・・・
少し先(北側)には、緩やかにそっちへ下りていく道がありました。
普段道の無い所ばかり巡っていると、動きがついあせる直線的になります

橘城【12】
⑥北西の腰曲輪

さらに主郭外周を時計回りに進むと、再び腰曲輪が見えてきます。
今度は、上からも足元に堀切があるのが見えます。

橘城【13】
⑥北西の腰曲輪

先程のものよりも深く鋭く美しいですラブラブ

橘城【14】
⑥北西の腰曲輪

こちらの腰曲輪は、先端部にもう1段あります。
その段差が、こうして見下ろす程あります。

橘城【15】
⑥北西の腰曲輪

下から見上げると、土の壁にしか見えません。
どうやってここまで下りたのか、記憶にありませんが・・・w

橘城【16】
⑥北西の腰曲輪

尾根伝いに登ってくる敵を警戒したのでしょうか。
そこそこの広さがあり、柵を設置すれば簡単に防げそうです^^

【位置・再】橘城

私が辿った足跡です。
赤い線はGPSロガーで記録したものです。
近頃はみちびきなんかも打ち上げられ、対応機種も出てきてます。
精度とお値段が比例するので、私は安物を沢山ぶら下げて歩いてます。
そしていくつもの軌跡を取り込んで、一番幅が狭いものを採用してます。


◆歴史◆

大平氏が築き、後に矢野氏が居城としました。

ここもマイナーなせいか、ググって出てくるのはこれだけです。
説明板では15世紀後半から16世紀前半に大平国秀の居城だったとあります。
「大平国秀」でググると、今までとは違うものが出てきました。

橘城の別名は「天王城」でした。

城主として名前が登場する大平国秀は、大平国祐の異母弟でした。
大平国祐は讃岐守護代・香川氏の重臣として戦国時代に活躍した人物です。
別人でなければ、活動時期が説明板より100年近く後ろにズレます。
先日紹介した麻城の大平国久(近藤出羽守)が次兄に当たります。
麻城で調べてもわからなかった本名、ココで出てきました(*´▽`*)
ついでに書くと、大平国祐と近藤出羽守は双子だったそうです。

天王城で紹介されている縄張図は、現地のものより広く描かれています。
南側の四阿の所も腰曲輪で、そのすぐ南に大きな堀切が描かれています。
・・・今はもう無くなっちゃってますがあせる

少しだけおさらいすると・・・
・大平国祐は香川之景の重臣として活躍した
・香川之景は1578年、長宗我部元親に降りその次男を養子に迎えた
・同時期、一度は降った大西覚養が背き、長宗我部軍に攻められた
・居城を追われた大西覚養が、大平国久を頼って麻城に逃れて来た
・麻城は落城し大平国久は討死、大西覚養は長宗我部家臣となる
な感じです。

1578年、長宗我部軍に攻められたようです

ググっても間接的な情報しか出てきませんが・・・
南西の伊舎那院が1578年、長宗我部軍により焼かれています。
慶長年間(1596-1615)に再建され、大平国秀の供養塔があります。
三豊市のサイトでは、大平国秀が伊舎那院で切腹したとあります。

さらに、城跡の目の前にある鉾神社は、大平国秀による創建でした。
それまで3つに分かれていた鉾神社をまとめて合祀したそうです。
驚くべきは、近藤出羽守が大平国秀や妻子、家臣の供養をしたそうです。
近藤出羽守は1578年、長宗我部軍に攻められて戦死しています。
ただ、長宗我部軍に一度降った大西覚養が近藤出羽守の所に来ています。
伊舎那院と鉾神社をググって出てきた情報から推測すると・・・

長兄・大平国祐は長宗我部軍に敗れた後は潜伏していた
次兄・近藤出羽守は長宗我部軍に降ったものの大西覚養に同調した
三男・大平国秀は長宗我部軍と戦い伊舎那院で自害した

直接こう書かれたサイト様が無いので、状況からの推測です。
ココだけ切り取って「なぽが言ってたw」なんて書かないで下さいネ。

矢野氏が居城としました

・・・と書かれていますが、それ以外何も出てきませんでしたあせる
ググってみると、三豊市には矢野姓の方が多くいらっしゃるようです。


所在地:香川県三豊市財田町財田上 GPSログダウンロードページ

香川県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

無題

かなり、破壊されていますが、この地方では随一の技巧を持った城だと思っています。
破壊される前の縄張図を見ると、本当にそう思います。

恐らく、長宗我部氏の改修が入ったんでしょうね。

ちなみにこの山の対面に鎮座する鉾八幡宮では、今年はできませんでしたが、この地方の秋祭りが行われ、『ちょうさ』が勇壮に坂を登っていく姿が見えます。

Re:無題

>syunpatsuryoku1号さん
四国の山城経験値が低いので?ですが、そうなんですね。
堀切があって土塁で仕切ってちゃんと虎口もある。
私は本州の山城っぽさを感じました。
ただ、豊織系最大の特徴である石垣が無いんですよね・・・。
城主になった矢野氏がどこから来たのかが気になります。
非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR