2020/10/30
宿毛城/高知県宿毛市
宿毛城は、川沿いにあった石垣のある城でした。訪問日は2018年8月6日です。

道の反対側から見た宿毛城です。
河川敷の駐車場を利用し城攻め開始!

説明板を表示
城跡は石鎚神社となっており、入口に鳥居と説明板があります。
表から見える石垣は、お城のものではなさそうです。
ちなみに、奥に見える城址碑には「松田城」と彫られています。

①登城路 説明板を表示
石段の上からは、時計回りに道があります。
神社の参道っぽいですが、お城の頃からあった道でしょうか。
周囲は切り立っているので、他に道は無さそうです。

②南側の石垣
参道沿いに石垣が見られます。
雰囲気的にお城のもののようです。

③石鎚神社
参道を上り切ると、平らな場所に出ます。
奥には神社が見えますが、ちょっと荒れてます


④社殿背後の石垣
社殿左脇を奥へ進むと、こちらにも石垣があります。

⑤社殿背後の石垣
ここの石垣が一番の見所で、長さ24メートル、高さは5メートルあります。

⑥社殿背後の石垣
せっかくなので、先端まで攻めてみました。
普段人が歩く場所ではないので、草木に埋もれています。
辛うじて角が見えますが、算木積みの原型でしょうか?
少しだけですが、互い違いに積まれているように見えます。

⑦社殿背後の北東側
北西側は、噂通りの見事な石垣でした。
そう言われると大抵の人は北西だけ見ますが、私は天邪鬼。
誰も紹介していないだけで、こっちにも石垣あるか?と攻めました。
北東側は特に石垣は見当たらず。
無かったのか、埋もれたのかは?です。

⑧石段脇の石垣
ひと通り見たので、本日の城巡り終了!
車に戻ろうと、社殿正面の石段を下りました。
左脇が気になり斜面へ分け入ると、ここにも石垣がありました。
近世のものではありませんが、積み方がちょっと荒いような気が・・・
お城のものかもしれませんし、そうでないかもしれません。
城キチは、石が積まれているととりあえずカメラを構える習性があります。

◆歴史◆
松田兵庫の城でした。
松田兵庫については、城主としてその名が伝わるのみです。
いつの時代の人物かすら???です

依岡伯耆守より前なので、一条氏が土佐に下向する前だと思われます。
あとは勝手に想像するしかないのですが・・・
「松田氏」というと、相模国の武家を思い出します。
鎌倉時代に土佐に領地を得て下向した???のかもしれません。
1575年、長宗我部軍に攻められた時の城主は依岡伯耆守でした。
依岡伯耆守は土佐国司・一条氏に従っていたとされます。
土佐一条氏は、応仁の乱の戦乱を避けるため1468年に下向しました。
一条氏の幡多郡の領地は、在地土豪による押領に悩まされていました。
また、土佐守護・細川政元が1507年に暗殺され、守護側勢力も衰えました。
もしかしたら、一条氏により宿毛も攻められたかも???しれません。
宿毛城主として伝わるのは依岡伯耆守ですが・・・
一条家臣として有名なのは、依岡左京進です。
依岡右京進という人物もいますが、同一人物説もあります。
宿毛市南部の伊与野城主と伝わります。
1573年、一条兼定が無実の筆頭家老を殺し、家臣団から隠居させられます。
さらに、年が明けると一条兼定は豊後へ追放されました。
これには一条家臣団内部で対立が激化し、武力衝突に発展。
長宗我部元親は、その鎮圧の名目で一条氏の本拠・中村を制圧しました。
この時、一条家臣は先を争うように長宗我部軍に内応したとされます。
依岡伯耆守についてはググってもほぼ何も出てきませんが・・・
わかっている事は、長宗我部軍には降らずに抵抗し、討死しています。
一方、依岡左京進は長宗我部軍に降り、抵抗する一条家臣を攻めました。
依岡左京進のWikipediaでは、降らなかった一族を攻めたと書かれています。
一条氏勢力の掃討後、長宗我部元親から500町の領地を与えられます。
長宗我部右衛門太夫が城主となります。
長宗我部右衛門太夫って誰だろう?と思ったら、長宗我部国康の子でした。
長宗我部国康は長宗我部国親の弟なので、長宗我部元親とは従兄弟です。
「一族」なんて書かれると、もっと遠い親戚みたく感じますよね?
ただ、宿毛城主ではありますが、あちこちの城主でもあったようです。
長宗我部右衛門太夫は後に戸波城主となり、戸波親武と名乗ります。
戸波城の方がずっと高知寄りなので、そっちが先だと思いますが・・・
宿毛城を与えられた時にも、まだ右衛門太夫と呼ばれていたのかも???
戸波親武は、阿波に進出した従兄弟から十河城も任されています。
羽柴秀吉による四国征伐後も、戸波城主だったようです。
戸波親武は1589年に没し、戸波親清が家督を継ぎました。
長宗我部右衛門太夫の子として、宿毛甚左衛門の名が伝わります。
詳細不詳の人物ですが、戸波親清の兄弟の可能性大です。
宿毛甚左衛門は1615年の大坂の陣の後、藤堂高虎に仕えています。
戸波親清も藤堂高虎に仕えていて、剣術指南となっています。
やっぱり兄弟じゃないか???と思います。
1601年、山内可氏が城主となりました。
長宗我部盛親が関ヶ原の戦で西軍についたため、改易されました。
土佐一国が山内一豊に与えられ、山内可氏が宿毛城主となりました。
山内可氏は、山内一豊の姉の子です。
宿毛山内家は土佐藩家老を務め、代々宿毛を治めました。
城は1615年の一国一城令で廃城となりますが、麓に土居が築かれます。
明治時代になると伊賀姓に改め、東京へ移ったそうです。
所在地:高知県宿毛市中央2丁目
高知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント