2020/10/27
朝倉城/高知市
朝倉城は土佐の傑物・本山茂宗により築かれました。訪問日は2018年8月6日です。

登城ルートはいくつか候補を立てましたが、東側から攻めました。
集落の細い道を進み、公民館に辿り着けばokです。

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上の写真に写っている朝倉城の図です。
この図の所で右折します。

図の所からズンズン進み、未舗装に変わる所が東の登城口です。
車は路肩に何とか停められます。
なんとなく、山の中に捨てられた廃車に見えてしまいます


登城路の雰囲気は、山の中の畑に向かう感じです。
この石垣は古そうですが、お城のものではなさそうです。
そう言いながら撮ってしまうのが、城キチの悲しいサガです。

入口に案内はあったものの、遊歩道でもなくただの山道です。
1本道ではあったものの、城跡らしさが感じられず心細くなってきます。

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しかし、そんな不安を察してか、竹林に入る所にこの図があります。
ココがこの図の何なのかが?ですが・・・
山城にあるものがひと通り描かれています。
どこの山城でも使えそうな逸品です


ここから山城の雰囲気たっぷりな道に変わります。
切通しっぽく見えますが、縄張図を見ると虎口のようです。

前方に城塁の切れ間が見えました。
日の差す所から上がれそう!と突撃です。

その下まで行くと、虎口見えました^^

虎口の中はとても広い曲輪でした。
ここが主郭の詰ノ段です。

時計回りに外周を歩いていると、ある一端に土橋がありました。
向こう側は竹が密生しており行けませんでしたが・・・
GPSで割り出した位置を縄張図で見ると、二ノ段に通じているようです。

土橋の少し先に、城址碑があります。
ありきたりだと思っても、じゃぁ何処にあった?と思い出せず。
そうは見えても、やっぱり唯一無二の個性派です。
特に足元


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城址碑のまたちょっと先に、白い板が2枚並んであります。
その1枚がきれいに色分けされた平面図です。
陽の差し加減で影が入り、綺麗に写せず


詰ノ段は1メートル程の土塁に囲まれています。

城址碑の脇からも、奥への道があります。
詰ノ段から下った低い所が、詰西ノ段との間にある堀切です。
当時の私が何を思っていたのかが?ですが・・・
ちょっと進んでUターンしています。
そのまま進めば良かったのですが。
数枚写真を撮ったので意図はあったと思います。

GPSログを見て〇| ̄|_
山頂の詰西ノ段に辿り着いていませんでした。
縄張図を見ても道が離れた所を通っているので、行けるか?ですが。
それでも、西の茶臼ヶ森まで見に行けば良かった・・・
◆歴史◆
本山茂宗により築かれました。
大永年間(1521-27)、本山茂宗により築かれました。
本山茂宗は『土佐物語』で「其器傑出」と評された武将です。
1507年、土佐守護・細川勝元が京で暗殺されました。
すると、細川勝元を後ろ盾としていた長宗我部兼序が孤立します。
長宗我部兼序は傲慢な態度だったため、周辺勢力に嫌われていました。
本山氏は吉良氏や山田氏と同盟を組み、長宗我部兼序を攻撃。
1508年にその本拠・岡豊城を陥落させます。
長宗我部氏が没落すると、本山茂宗は勢力を拡大しました。
朝倉城を築いて本拠とし、本山城を嫡男・本山茂辰に譲りました。
土佐は、本山氏と一条氏の2強対決の様相を呈するようになります。
一条氏に保護されていた長宗我部国親が1518年に岡豊城に復帰します。
本山茂宗はその娘を本山茂辰の嫁に迎え、和睦しました。
1562年、廃城になりました。
1555年、本山茂宗が世を去りました。
すると、長宗我部国親が次第に本山茂辰と対立するようになります。
1560年、浦戸湾での小競り合いから、本山氏の長浜城が攻め落とされます。
本山茂辰は浦戸城に入り、長宗我部軍を迎え撃ちます。
長宗我部軍は浦戸城も攻めますが、この最中に長宗我部国親が没しました。
しかし、長宗我部軍の優勢は揺るがず、本山茂辰は朝倉城へ撤退しました。
長宗我部元親は本山家臣を調略で切り崩し、朝倉城の支城を攻略。
1562年9月に朝倉城を攻めますが、本山茂辰は撃退しました。
しかしこの後、本山茂辰は自ら朝倉城に火を放ち本山城へ撤退。
朝倉城はこの時に廃城となりました。
山間の本拠で抵抗したものの翌年敗れ、本山茂辰は行方不明となります。
所在地:高知市朝倉 GPSログダウンロードページ
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