2020/10/26
浦戸城/高知市
浦戸城は、桂浜を眼下に望む長宗我部元親の居城でした。訪問日は2018年8月6日です。

①駐車場手前のヘアピンカーブ
高知の超有名観光地・桂浜のすぐ脇にある山城です。
城跡は現在、坂本龍馬記念館になっています。
城キチとしては、その両者の混雑に巻き込まれたくありません。
ということで、記念館手前のヘアピンカーブにある駐車場を利用しました。
ここならどちらからも離れていて、駐車場は余裕があります。

①天守跡脇の駐車場
駐車場脇のこんもりした土盛りが、浦戸城の天守台です。
その上に上がる階段が目の前にあります。

①天守跡
天守台上には、天祇神社の小さな社があります。
その奥にある白い板が、浦戸城の説明板です。

①天守跡から見下ろした眺め
上から駐車場を見下ろすと、途中に腰曲輪が見えます。
遺構は殆ど無いと書かれた所で、嬉しい発見です^^

②詰ノ段(主郭)
長宗我部元親と山内一豊も一時居城としたのですが・・・
その主郭部分は現在、こんな風になっています。
これでも高知県指定の史跡なのだそうです。
桂浜の近所でまとまった土地、というのが仇になったのでしょうか。

③説明板
建物の裏にも、浦戸城の説明板があります。
脇には「詰ノ段」の標柱がありますが、何だかチョッと虚しいです


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説明板に載っているのは古図です。
説明板の向きに合わせ、北を上にしてあります。
パッと見で違和感を感じますが・・・w
本城の右上に描かれているのが、先程見て来た天守跡です。
現在見られる遺構は、西側に集中しています。

③遊歩道
記念館の裏から西へ通じる遊歩道です。
幅があり足元もしっかりしているので、真夏でも安心して歩けます。

④三ノ段
しばらくは両側に断崖の迫った細い道が続きます。
やがてポツポツとまとまった平地が現れます。
これが三ノ段です。
詰ノ段と二ノ段の間ですが。
古図をよく見ると、「二」とか「三」があちこちにありますw
図を描いた人も、どこが何だった?のかと思います。
曲輪の数え方が???です。

⑤堀切の説明板
遊歩道をさらに奥へ進むと、堀切の説明板が現れます。

⑤遊歩道脇にある三重堀切
視線を先へやると、遊歩道脇に土の波が見えました。
遊歩道で半分壊されたものの、左半分だけ残っていました。

⑤遊歩道から見た堀切
なので、遊歩道から堀切の断面が見えます。
史跡にするなら、少し考えて欲しかったのですが・・・

⑤三重堀切
少しでもらしい絵面が欲しくて、いろんな角度から撮りました。
少しは山の中で撮ったように見えますでしょうか?

⑥二ノ段
三重堀切からさらに先へ進んだ所が二ノ段です。
道端にもそのような案内の標柱がありました。
古図では二ノ段が3つありますが、その中の1つですw
整備され多少破壊されてはいますが、曲輪の面影は残っています。

「遺構は殆ど無い」だったので、三重堀切だけ見に来た感じです。
なので、その先の公園っぽい二ノ段まで見て満足して次へ行きました。
改めて古図を見ると、ここから先に手付かずの遺構がありそうですが・・・
訪ねる前の私に教える術がありません

◆歴史◆
本山茂宗により本格的に築城されました。
築城時期は不明ですが、古くから砦があったとされます。
本山茂宗は土佐七雄の一家で、その中でも最も大きな領地を持ちました。
本拠地は土佐北部の本山城ですが、土佐中部にまで進出しました。
その時期は大永年間(1521-27)で、1532年には朝倉城を築いています。
本山茂宗は『土佐物語』で「其器傑出」と評される武将でした。
土佐吉良氏を滅ぼし、一条氏や長宗我部氏と争い勢力を拡大。
本山氏の全盛期を築き上げています。
1560年6月、長宗我部軍に攻め落とされました。
1555年、傑物・本山茂宗が没しました。
両家は1544年に和睦し、長宗我部国親の娘が本山家に嫁いでいました。
長宗我部国親は、北の脅威を防ぐ間に南西部に勢力を拡大していました。
1560年、長宗我部家の兵糧を積んだ船が、本山軍の船に襲われました。
これを契機に長宗我部国親が、浦戸のすぐ西の長浜城を攻め落としました。
長宗我部軍はそのまま、すぐ東の浦戸城を攻めますが・・・
その最中に長宗我部国親が没しますが城攻めは続き、浦戸城も陥落しました。
本山茂辰は朝倉城へ撤退し、籠城しました。
籠城戦は1563年1月まで続きますが、本山軍は本山城へと撤退しました。
翌年にはその本山城も攻められ、本山茂辰は行方不明となります。
長宗我部元親はその後、降った香宗我部氏を弟・親泰に継がせます。
1569年には安芸国虎も滅ぼし、着実に勢力を拡大しました。
1591年、長宗我部元親が居城としました。
長宗我部元親は四国征伐後、大高坂城を築き本拠としました。
大高坂城は、高知城の前身となるお城です。
しかし、水はけが悪く洪水に悩まされ、築城3年で浦戸城へ移りました。
1601年、山内一豊が入城しました。
長宗我部盛親が関ヶ原の戦で西軍に味方し、改易され領地を失いました。
代わって、土佐一国が山内一豊に与えられました。
しかし、一領具足と呼ばれる長宗我部旧臣に阻まれ、なかなか入国出来ず。
旧主・長宗我部盛親に土佐半国を譲るよう要求し、浦戸城に籠りました。
浦戸城の接収に向かった井伊直政家臣の宿所を、長宗我部旧臣が包囲。
激怒した徳川家康が、四国の大名に浦戸城攻めを命じました。
籠城戦は50日に及びましたが、城内の重臣と一領具足の間で意見が対立。
重臣方が偽情報を流して一領具足を城外へ出し、討ち取られました。
討ち取った首は273に及び、塩漬けにして徳川家康のもとへ送られました。
ようやく土佐に入国出来た山内一豊は、浦戸城に入りました。
1603年、廃城となりました。
浦戸城は土佐一国の中心としては手狭なため、高知城が築かれました。
各地で一領具足の一揆が続いており、築城の視察も影武者にさせる程でした。
高知城は大高坂城を改修整備したもので、本格的な総石垣の城となりました。
高知城が完成すると、浦戸城は役割を終えて廃城となりました。
所在地:高知市浦戸 GPSログダウンロードページ
高知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント
無題
2020/10/26 05:37 by 青空さん URL 編集
Re:無題
私も名前は聞いたことがあったものの、一領具足について調べたことがありませんでした。一領具足は半農半士で、織田軍の傭兵とは真逆の方向に特化したものだそうです。なので大まかには、織田系の山内一豊が領主になると、行き場を失う事が抵抗した要因だそうです。土佐藩の上士によそ者が多いのはそのためだそうです。
2020/10/26 12:53 by なぽ URL 編集