2020/10/23
安芸城/高知県安芸市
安芸城は「土佐七雄」安芸家の本拠地でした。訪問日は2018年8月6日です。

安芸城は平山城で、麓は住宅街となっています。
駐車場は東側の美術館や民俗資料館前にあります。
朝7時だったので、停められるかどうかはちょっと不安でしたが


②内側から見た追手門
まず向かったのは、最大の見所である南側の追手門跡です。
土塁と石垣で囲まれた光景、落ち着きます


③土塁と石垣
土塁と石垣は、かなり良い状態で残っています。
桝形虎口を真横から見られるのは珍しいかもしれません。
手前に土塁なり石垣なりがあって見えないのが殆どなので。

④安芸土居内部
同じ場所から見た城内です。
手前の建物が民俗資料館で、奥の山が城山です。
建物は一応、お城を意識したデザインになっています。

⑤追手門
桝形虎口の石垣です。
クネッと曲がっていて、いい目隠しになっています。

⑥追手門
この上に櫓門があったんでしょうね♪

⑦追手門
外側から見た追手門跡です。
水堀とセットで残っているので、とても雰囲気があります。

⑧水堀
大手門前の水堀です。
お城の規模的に元々この幅だったように思います。

⑨水堀
左側の水堀は、角を曲がった所までで途切れます。
住宅街になっているので仕方がないのですが・・・
それでも、追手門前から見ればそんな風には見えません。

⑩水堀
追手門前右側の水堀は、蓮でビッシリ埋まっています。
攻める側としては、水面が見えない方が心理的に攻めづらそうです。
船で渡ろうなんて思いませんからね!

⑪民族資料館前の説明板 拡大表示
追手門から城内に入り直して、城山へ向かいました。
民俗資料館前脇を通りますが、建物の前に説明板があります。
その図を拝借(*'▽')ノ
川沿いの独立丘陵を利用していたのがよくわかる図です。

⑫入口
奥へ進むと城山の入口があります。
あんまり入口感が無く、手前に木があると見落としそうです。

拡大表示
入口の説明板に載っている図です。
ちゃんと縄張りのわかるスグレモノです

曲輪の名前や土塁・石垣なども書き込まれ、とても参考になります。

⑬石垣
入口脇にも石垣があります。

⑭三ノ段
入口から登ってすぐの所に三ノ段があります。
尾根を削ったっぽい出っ張りです。
よその地方では腰曲輪とか三郭とか三の丸と呼ぶ所です。
登城路脇から先端まで見えています。

⑭三ノ段からの眺め
まだ登り始めたばかりですが、既に民家を見下ろす高さです。

⑭三ノ段から二ノ段へ
城山は、こんな感じの道が整備されています。

⑮二ノ段
さらに上には二ノ段があります。
三ノ段、二ノ段は登城路脇にあります。
ここに兵を置いたのか、倉庫の類があったのか。

⑯詰の虎口
さらに進むと「虎口」の案内があります。
三ノ段、二ノ段は登城路から丸見えでした。
やはり曲輪としての性格が全然違いそうです。

⑯詰の虎口から
よその地方での「詰」は、主郭の奥の隠れた曲輪のイメージですが・・・。
四国では、主郭とか本丸とか一の郭に該当する場所です。
三ノ段や二ノ段では見られなかった土塁が、入ってすぐ現れます。

⑯詰の南側
かなり広く、しっかりと平らに均されています。

⑰詰の北側
詰は細長い曲輪で、北側は先細りな感じになっています。

⑱詰と北ノ段の間にある段差
その先には段差があり、石積みで補強されています。

⑲北ノ段
段差の奥にあるのが北ノ段です。
よそ者の私には、こっちが「詰」のイメージですw
入口にあった図では、この先の尾根に堀切が描かれていますが・・・
真夏に訪ねるにはチョット難易度が高めな感じでした


◆歴史◆
1308年、安芸親氏により築かれたと伝わります。
安芸氏は、蘇我馬子の孫・蘇我赤兄が祖先とする一族です。
蘇我赤兄は、壬申の乱で大友皇子の右腕として活躍した人物です。
乱の鎮圧後に捕らえられ流罪となりますが、それがどこなのか?です。
確かに土佐は、古代から流刑者が送られて来る土地柄ではありました。
安芸氏は安芸川の水運の利を得て勢力を拡大。
室町時代には細川吉兆家に仕え、代々偏諱を受けています。
応仁の乱では細川勝元方として、畿内での戦に参戦しています。
安芸郡5000貫を支配し、土佐七雄の一家に数えられました。
1569年、香宗我部親泰が城主となります。
戦国時代の安芸氏は、西隣りの香宗我部氏と争いました。
1526年には、香宗我部氏の嫡男を討ち取るなど優勢でした。
香宗我部氏は長宗我部氏にも攻められており、次第に衰退。
1556年に長宗我部国親の三男を養子に迎え、その配下となりました。
長宗我部氏と境を接するようになり、安芸氏は直接争うようになります。
1564年に戦った時は引き分けました。
この時ですら、安芸国虎は義兄・一条兼定から兵3000を借りていました。
長宗我部元親はその後、本山氏を滅ぼして土佐中部を統一。
1569年、長宗我部元親は安芸国虎を岡豊城に招きますが・・・
安芸国虎に臣下の礼を取らせようとする挑発でした。
これを機に両者は開戦しますが、長宗我部元親は安芸家中を調略済み。
内応者が相次ぎ、長宗我部軍が安芸城を包囲しました。
24日の籠城の後、安芸国虎は城兵の助命を条件に自害しました。
安芸城には、香宗我部親泰が入りました。
その後、安芸城は阿波侵攻の拠点となります。
1600年、山内一豊の家臣・五藤氏が城主となります。
長宗我部盛親が関ヶ原の戦で西軍だったため、戦後改易されました。
戦後、本領安堵に奔走した兄を殺したのが原因ともされますが・・・
土佐一国は、山内一豊の領地となりました。
安芸城には、安芸郡の代官として五藤為重が入りました。
五藤為重は、山内一豊の頬に刺さった矢を抜いた五藤為浄の弟です。
1615年、廃城となり安芸土居となります。
五藤為重は領地が各地に分散し、安芸郡の支配権はありませんでした。
しかし、子孫は1670年頃に家老職、1700年に奉行職に任命されます。
その後も、幕末まで代々土佐藩の要職を務めています。
安芸土居は、2012年まで五藤氏の私有地だったそうです。
所在地:高知県安芸市土居
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