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勝山館/北海道上ノ国町

勝山館は、上国守護となった蠣崎信広により築かれました。
訪問日は2018年6月3日です。

勝山館【1】
①勝山館跡ガイダンス施設

勝山館へは、上からも下からも訪ねることが出来ます。
私はスタンプも欲しかったので、上から訪ねました。
決して下りる方が楽だ!と思った訳ではありません。
そういうことにしましょうあせる
続日本100名城スタンプは、ガイダンス施設にあります。
ここにはかなり大きな駐車場があり、安心して車を停められます。

勝山館【2】 勝山館跡ガイダンス施設
 開いている時間:10時~16時
 お休み:月曜日(祝日の場合その翌日)、
 11月10日頃~4月10日頃
 入場料:大人200円、子供100円

勝山館【3】

ガイダンス施設のすぐ脇には、夷王山が聳えています。
この山の周りで、お墓が多数見つかっています。
蠣崎信広のお墓も、この中に含まれていると考えられています。

勝山館【4】

ガイダンス施設脇の道を下ると、コンクリートの遊歩道に出ます。
この道がまっすぐに勝山館へとつながっています。
そろりそろりと下って行くと、やがて平坦地に出ます。

勝山館【5】
②「勝山館後ろの守り」の説明板の図 拡大表示

上の写真中央に見える説明板の図です。
ここは勝山館の背後で、先ほどの夷王山へと続く場所です。
説明文では、約650基のお墓に囲まれご先祖様に守られていたそうです。
地形的に、勝山館を攻めるなら背後が手薄な感じなのですが・・・
蝦夷地の方々は、とても信心深かったのかもしれませんあせる

勝山館【6】
③搦手口の堀切

搦手口の前には堀切があります。
この堀切は二重になっていて、手前にも浅いものが一条あります。
さらに、道幅を狭めるようにも掘られています。
背後から大軍で押し寄せられるのを防ぐ工夫のようです。

勝山館【7】
③搦手口の内側

搦手門の土塁のすぐ内側に、館八幡宮の跡があります。
手前が室町時代、土塁に近い奥が江戸時代に再建された場所です。
門を守る櫓を置くような場所なのですが・・・
こちらから攻められる事をあまり想定していないような感じです。

勝山館【8】
③館八幡宮跡からの眺め

館八幡宮跡が、勝山館では一番高い場所です。
内部は緩い傾斜になっていて、中央の道沿いに建物が並んでいました。

勝山館【9】

ちょうど中央辺りからの眺めです。
続日本100名城スタンプのデザインはこれですね!
中央をまっすぐ道が通っているのが、勝山館最大の特徴です。

勝山館【10】
④櫓門跡

勝山館内部は傾斜はあるものの、目立った段差はありません。
道の両脇には、様々な建物跡の説明板が並んでいました。
その中の1枚が、櫓門についてのものでした。
特に目立った段差は無いのですが、ココで上と下を隔てていたようです。

勝山館【11】
⑤城代住居跡

櫓門の前から大手門までの間に、城代の住居跡があります。
大手門の内側ですが、櫓門の外側というのが意外です。

勝山館【12】
⑥主郭を囲む柵

主郭は柵に囲まれていました。
その柵が復元されていて、いい雰囲気醸し出していますラブラブ
遺構を破壊しない程度なら、各地で採用して欲しいですね^^

勝山館【13】
⑦大手門前の木橋

通路部分は柵が無く、虎口になっています。
ここが大手門跡で、正面に木橋が架かっています。
城塁を上がるよう、斜めになっています。
通路が無かった城塁は、どこもこんな感じだったのかも。

勝山館【14】
⑧主郭城塁下の二重堀

主郭は高い城塁で下の曲輪と隔てられています。
外側から見ると、沖縄の中城城を思い出しました。
アレを土でやるとこんな感じですねラブラブ

勝山館【15】
⑨主郭城塁下の二重堀

高い城塁の前には二重の堀があります。
攻城側は、高い壁の下で足元の自由も奪われます。

勝山館【16】
⑩主郭前の曲輪

高い城塁の前には、広い曲輪があります。
ここも斜めになっていて、そのまま家を建てると体壊しそうです。
こんな綺麗にお手入れされているのに、貸し切り状態なのが恐縮です。

勝山館【17】
⑩広い所から下る道があります

広い曲輪から、麓に下りる大手道が通じています。
道は窪んでいて、通る場所を限定しているように見えます。

勝山館【18】
⑪虎口

上から見ると堀底道っぽく見えましたが・・・
下から見ると、クネッと曲がった道を土塁が囲んでいます。
カギ型の虎口ですねラブラブ

勝山館【19】
⑫虎口っぽい所

全般的に掘り下げた感じの道ですが、ここは顕著です。
こんもり盛り上がったのか盛り上げたのか、その下に道が通っています。
これくらいの傾斜なら、ただ通るだけならわざわざ掘りませんよね?
地形的には通せんぼ向きなので、違う形の虎口があったかもしれません。

勝山館【20】
⑫登城路から見上げたところ

虎口状の堀底道から見上げるとこんな感じです。
上から矢や槍で狙われたらイチコロです。

勝山館【21】
⑬虎口

麓から勝山館へ行けそう?
そんな予感がする辺りで、道がクネッとなっています。
おそらくココに、門があったのでは?と思います。
現代では、ツルピカ石碑が城キチ達を出迎えます^^

勝山館【22】

下からの登城口です。
何も言われないと、両脇の家に入る道にしか見えません。

勝山館【23】

でも、続日本100名城に選ばれましたからね!!
登城口の国道沿いに、ちゃんと案内出ています^^

【位置・再】勝山館


◆歴史◆

蠣崎信広により築かれました。

蠣崎信広は、上国守護・蠣崎季繁の養子となり継いだ人物です。
養子となる前は武田信広という名で、若狭国から来たとされます。
ずいぶん遠いですが、当時は海運で蝦夷地と交易がありました。
史料上では登場人物どうしの年齢にかなり無理があるようですが・・・
本当の所は???です。
ただ、ウソだとしても、そういう人の流れはあった事がわかります。
そうでなければ、そうかもしれないね?とは思ってもらえないので。

武田信広が登場するのは、安東政季とともに蝦夷地へ渡った頃からです。
1454年に下北半島を脱出して蝦夷地へ渡り、南部家に反旗を翻しました。
安東政季は1456年、又従兄弟の安東惟季に招かれ出羽国小鹿島へ移ります。
丁度その頃にアイヌと和人の争いから、コシャマインの乱が始まりました。
武田信広は花沢館の蠣崎季繁のもとで大逆転勝利に貢献。
蠣崎季繁の養女(安東政季の娘)を娶り、蠣崎家の後継者となりました。
1462年頃に蠣崎季繁が没した後、勝山館を築き始めました。
完成年月は不明ですが、1473年までには完成したと考えられています。

1514年、蠣崎光広が松前大館へ移りました。

1512年、アイヌが松前大館を襲撃し陥落。
大館を守っていた相原季胤と村上政儀が討死しました。
その後、上国守護の蠣崎光広がアイヌの乱を鎮圧して大館を回復。
1514年に船180艘を率いて居城を松前大館に移しました。
翌年、再びアイヌが蜂起して松前大館を襲撃。
蠣崎軍は劣勢でしたが、和議の席でショヤ・コウジ兄弟を謀殺。
形勢は逆転し、蠣崎光広は乱の鎮圧に成功しました。
蠣崎光広は乱鎮圧後、檜山安東家に対して松前守護に任じるよう迫ります。
安東尋季は当初拒んだものの、蝦夷交易の収益を納める事で折れました。
家督相続前の蠣崎光広の嫡男・義広を、上国・松前両守護としました。
勝山館は弟・蠣崎高広を城代とし、和喜の館と称するようになります。

1548年、城代・蠣崎基広が乱を起こしました。

1545年に蠣崎義広が没し、嫡男・蠣崎季広が家督を継ぎました。
従兄弟の蠣崎基広は、自分の扱いに不満を感じて挙兵したとされます。
それが具体的にどんな理由なのかが???なのですが・・・
1548年、蠣崎基広は挙兵し、蠣崎季広の家臣・長門広益に討たれました。
大手道脇の荒神堂が蠣崎基広のお墓だったと、現地に案内があります。
そこには「上ノ国守護・蠣崎基広が謀反を企て~」とあります。
蠣崎基広が当時の城代だったんですね!

城代・南条広継が自害しました。

蠣崎基広の討伐後、蠣崎季広の娘婿・南条広継が上国守護となりました。
蠣崎季広の長女(長子)を娶った南条広継は、とても優秀だったと思われます。
しかし、それが悲劇の元になってしまったのかもしれません。
蠣崎季広の長女は、実弟2人を毒殺しました。
自分が果たせなかった蠣崎家の家督を、夫に継がせるためでした。
しかしこれが長女の仕業と判明し、怒り狂う父により自害させられました。
嫌疑は夫の南条広継にも向けられますが、身の潔白を訴えました。
しかし信じてもらえないことに絶望し、翌年、南条広継も自害しました。
南条広継は自ら棺に入り、その上に1本の水松を逆さに活けさせました。
「この水松が根付いたら無実だ」と言い残し、家臣に埋めさせました。
これが「逆さ水松」です(ちょっと離れた所にあります)。
この事件の起きた年が、サイトによりバラバラです。
早い所では1552年から、遅い所で1562年までかなり幅があります。
記録上では、勝山館に城代が居たのは1552年までとなっているそうです。

この頃の蝦夷地では、かなり大きな動きがありました。
それが1550年の「夷狄の商舶往還の法度」によるアイヌとの和睦です。
アイヌの支配地域と収益が大幅に見直されたのでした。
この和睦には、檜山安東家当主・安東舜季も立ち合っています。
西夷尹となったハシタインが、勢力境となった上国に移り住みました。
それが勝山館なのかどうなのかが???ですが・・・


所在地:北海道檜山郡上ノ国町字勝山 GPSログダウンロードページ

北海道の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

無題

おはようございます。
 なぽさんのホームページのトップページを初めて知りました、今ごろではあります。とても見やすく考えられていて、知りたい地域やお城にぽーんと飛べてありがたいです♪
 この勝山館は大きな曲輪に町があるようですね。伊勢盛時の小田原城を連想しました。私が最近彷徨いている出水市野田町の亀井山城も、曲輪がデカく、そのような様式があるのかしらんと思いました。

Re:無題

>トシrotさん
ホームページは実験室です。色々やりたい事試して今の形になりました。身についてないので、再現出来ませんが(汗)小田原城の惣構えは、中国的な発想ですね。
非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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