2020/10/16
勝山館/北海道上ノ国町
勝山館は、上国守護となった蠣崎信広により築かれました。訪問日は2018年6月3日です。

①勝山館跡ガイダンス施設
勝山館へは、上からも下からも訪ねることが出来ます。
私はスタンプも欲しかったので、上から訪ねました。
決して下りる方が楽だ!と思った訳ではありません。
そういうことにしましょう

続日本100名城スタンプは、ガイダンス施設にあります。
ここにはかなり大きな駐車場があり、安心して車を停められます。
![]() | 勝山館跡ガイダンス施設 開いている時間:10時~16時 お休み:月曜日(祝日の場合その翌日)、 11月10日頃~4月10日頃 入場料:大人200円、子供100円 |

ガイダンス施設のすぐ脇には、夷王山が聳えています。
この山の周りで、お墓が多数見つかっています。
蠣崎信広のお墓も、この中に含まれていると考えられています。

ガイダンス施設脇の道を下ると、コンクリートの遊歩道に出ます。
この道がまっすぐに勝山館へとつながっています。
そろりそろりと下って行くと、やがて平坦地に出ます。

②「勝山館後ろの守り」の説明板の図 拡大表示
上の写真中央に見える説明板の図です。
ここは勝山館の背後で、先ほどの夷王山へと続く場所です。
説明文では、約650基のお墓に囲まれご先祖様に守られていたそうです。
地形的に、勝山館を攻めるなら背後が手薄な感じなのですが・・・
蝦夷地の方々は、とても信心深かったのかもしれません


③搦手口の堀切
搦手口の前には堀切があります。
この堀切は二重になっていて、手前にも浅いものが一条あります。
さらに、道幅を狭めるようにも掘られています。
背後から大軍で押し寄せられるのを防ぐ工夫のようです。

③搦手口の内側
搦手門の土塁のすぐ内側に、館八幡宮の跡があります。
手前が室町時代、土塁に近い奥が江戸時代に再建された場所です。
門を守る櫓を置くような場所なのですが・・・
こちらから攻められる事をあまり想定していないような感じです。

③館八幡宮跡からの眺め
館八幡宮跡が、勝山館では一番高い場所です。
内部は緩い傾斜になっていて、中央の道沿いに建物が並んでいました。

ちょうど中央辺りからの眺めです。
続日本100名城スタンプのデザインはこれですね!
中央をまっすぐ道が通っているのが、勝山館最大の特徴です。

④櫓門跡
勝山館内部は傾斜はあるものの、目立った段差はありません。
道の両脇には、様々な建物跡の説明板が並んでいました。
その中の1枚が、櫓門についてのものでした。
特に目立った段差は無いのですが、ココで上と下を隔てていたようです。

⑤城代住居跡
櫓門の前から大手門までの間に、城代の住居跡があります。
大手門の内側ですが、櫓門の外側というのが意外です。

⑥主郭を囲む柵
主郭は柵に囲まれていました。
その柵が復元されていて、いい雰囲気醸し出しています

遺構を破壊しない程度なら、各地で採用して欲しいですね^^

⑦大手門前の木橋
通路部分は柵が無く、虎口になっています。
ここが大手門跡で、正面に木橋が架かっています。
城塁を上がるよう、斜めになっています。
通路が無かった城塁は、どこもこんな感じだったのかも。

⑧主郭城塁下の二重堀
主郭は高い城塁で下の曲輪と隔てられています。
外側から見ると、沖縄の中城城を思い出しました。
アレを土でやるとこんな感じですね


⑨主郭城塁下の二重堀
高い城塁の前には二重の堀があります。
攻城側は、高い壁の下で足元の自由も奪われます。

⑩主郭前の曲輪
高い城塁の前には、広い曲輪があります。
ここも斜めになっていて、そのまま家を建てると体壊しそうです。
こんな綺麗にお手入れされているのに、貸し切り状態なのが恐縮です。

⑩広い所から下る道があります
広い曲輪から、麓に下りる大手道が通じています。
道は窪んでいて、通る場所を限定しているように見えます。

⑪虎口
上から見ると堀底道っぽく見えましたが・・・
下から見ると、クネッと曲がった道を土塁が囲んでいます。
カギ型の虎口ですね


⑫虎口っぽい所
全般的に掘り下げた感じの道ですが、ここは顕著です。
こんもり盛り上がったのか盛り上げたのか、その下に道が通っています。
これくらいの傾斜なら、ただ通るだけならわざわざ掘りませんよね?
地形的には通せんぼ向きなので、違う形の虎口があったかもしれません。

⑫登城路から見上げたところ
虎口状の堀底道から見上げるとこんな感じです。
上から矢や槍で狙われたらイチコロです。

⑬虎口
麓から勝山館へ行けそう?
そんな予感がする辺りで、道がクネッとなっています。
おそらくココに、門があったのでは?と思います。
現代では、ツルピカ石碑が城キチ達を出迎えます^^

下からの登城口です。
何も言われないと、両脇の家に入る道にしか見えません。

でも、続日本100名城に選ばれましたからね!!
登城口の国道沿いに、ちゃんと案内出ています^^

◆歴史◆
蠣崎信広により築かれました。
蠣崎信広は、上国守護・蠣崎季繁の養子となり継いだ人物です。
養子となる前は武田信広という名で、若狭国から来たとされます。
ずいぶん遠いですが、当時は海運で蝦夷地と交易がありました。
史料上では登場人物どうしの年齢にかなり無理があるようですが・・・
本当の所は???です。
ただ、ウソだとしても、そういう人の流れはあった事がわかります。
そうでなければ、そうかもしれないね?とは思ってもらえないので。
武田信広が登場するのは、安東政季とともに蝦夷地へ渡った頃からです。
1454年に下北半島を脱出して蝦夷地へ渡り、南部家に反旗を翻しました。
安東政季は1456年、又従兄弟の安東惟季に招かれ出羽国小鹿島へ移ります。
丁度その頃にアイヌと和人の争いから、コシャマインの乱が始まりました。
武田信広は花沢館の蠣崎季繁のもとで大逆転勝利に貢献。
蠣崎季繁の養女(安東政季の娘)を娶り、蠣崎家の後継者となりました。
1462年頃に蠣崎季繁が没した後、勝山館を築き始めました。
完成年月は不明ですが、1473年までには完成したと考えられています。
1514年、蠣崎光広が松前大館へ移りました。
1512年、アイヌが松前大館を襲撃し陥落。
大館を守っていた相原季胤と村上政儀が討死しました。
その後、上国守護の蠣崎光広がアイヌの乱を鎮圧して大館を回復。
1514年に船180艘を率いて居城を松前大館に移しました。
翌年、再びアイヌが蜂起して松前大館を襲撃。
蠣崎軍は劣勢でしたが、和議の席でショヤ・コウジ兄弟を謀殺。
形勢は逆転し、蠣崎光広は乱の鎮圧に成功しました。
蠣崎光広は乱鎮圧後、檜山安東家に対して松前守護に任じるよう迫ります。
安東尋季は当初拒んだものの、蝦夷交易の収益を納める事で折れました。
家督相続前の蠣崎光広の嫡男・義広を、上国・松前両守護としました。
勝山館は弟・蠣崎高広を城代とし、和喜の館と称するようになります。
1548年、城代・蠣崎基広が乱を起こしました。
1545年に蠣崎義広が没し、嫡男・蠣崎季広が家督を継ぎました。
従兄弟の蠣崎基広は、自分の扱いに不満を感じて挙兵したとされます。
それが具体的にどんな理由なのかが???なのですが・・・
1548年、蠣崎基広は挙兵し、蠣崎季広の家臣・長門広益に討たれました。
大手道脇の荒神堂が蠣崎基広のお墓だったと、現地に案内があります。
そこには「上ノ国守護・蠣崎基広が謀反を企て~」とあります。
蠣崎基広が当時の城代だったんですね!
城代・南条広継が自害しました。
蠣崎基広の討伐後、蠣崎季広の娘婿・南条広継が上国守護となりました。
蠣崎季広の長女(長子)を娶った南条広継は、とても優秀だったと思われます。
しかし、それが悲劇の元になってしまったのかもしれません。
蠣崎季広の長女は、実弟2人を毒殺しました。
自分が果たせなかった蠣崎家の家督を、夫に継がせるためでした。
しかしこれが長女の仕業と判明し、怒り狂う父により自害させられました。
嫌疑は夫の南条広継にも向けられますが、身の潔白を訴えました。
しかし信じてもらえないことに絶望し、翌年、南条広継も自害しました。
南条広継は自ら棺に入り、その上に1本の水松を逆さに活けさせました。
「この水松が根付いたら無実だ」と言い残し、家臣に埋めさせました。
これが「逆さ水松」です(ちょっと離れた所にあります)。
この事件の起きた年が、サイトによりバラバラです。
早い所では1552年から、遅い所で1562年までかなり幅があります。
記録上では、勝山館に城代が居たのは1552年までとなっているそうです。
この頃の蝦夷地では、かなり大きな動きがありました。
それが1550年の「夷狄の商舶往還の法度」によるアイヌとの和睦です。
アイヌの支配地域と収益が大幅に見直されたのでした。
この和睦には、檜山安東家当主・安東舜季も立ち合っています。
西夷尹となったハシタインが、勢力境となった上国に移り住みました。
それが勝山館なのかどうなのかが???ですが・・・
所在地:北海道檜山郡上ノ国町字勝山 GPSログダウンロードページ
北海道の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント
無題
なぽさんのホームページのトップページを初めて知りました、今ごろではあります。とても見やすく考えられていて、知りたい地域やお城にぽーんと飛べてありがたいです♪
この勝山館は大きな曲輪に町があるようですね。伊勢盛時の小田原城を連想しました。私が最近彷徨いている出水市野田町の亀井山城も、曲輪がデカく、そのような様式があるのかしらんと思いました。
2020/10/17 11:19 by トシrot URL 編集
Re:無題
ホームページは実験室です。色々やりたい事試して今の形になりました。身についてないので、再現出来ませんが(汗)小田原城の惣構えは、中国的な発想ですね。
2020/10/17 16:44 by なぽ URL 編集