2013/09/08
喜連川城/栃木県さくら市
喜連川城は荒川と内川に挟まれた丘にありました。訪問日は2011年10月29日です。

▲遠景
喜連川城跡は2011年3月11日の東日本大震災で大ダメージを受けました。全長700mにも及ぶ亀裂が見つかり、それ以降立入禁止となっています。その半年後、台風15号により幅70mにわたって土砂崩れが発生。民家を巻き込んでおり、公園自体の存廃も議論の争点となったそうです。訪問したのがこの台風の直後ということもあり、ブルーシートが目立ちます。

▲さくら市喜連川庁舎
城跡の麓にはさくら市喜連川庁舎があります。ここは江戸時代の喜連川藩庁の跡地だそうですが・・・遺構はありません。

▲摸擬櫓門
この庁舎の敷地内には、摸擬櫓門があります。いくらなんでも・・・城跡にはありがちな光景ですねw

▲お丸山公園
城跡はお丸山公園となっていますが立入禁止。そりゃぁ土砂崩れがあったばかりですからね。さくら市のホームページを見ると現在復旧工事中だとか。「今年度末までは立入できません」とありました。・・・来年度からは入れるということでしょうか?!

▲喜連川陣屋移築門
最後に、喜連川陣屋の門が移築され現存しているというので見に行きました。夕暮れ時で陽が傾いており、陽が暮れる前に辿り着きたいと気ばかり急きましたが・・・場所がわかりにくかったです( >Д<;)せっかく見つけたので、下のGoogle Mapに印をつけておきました。
※一般民家ですので、そっと見学しましょう。
◆歴史◆
喜連川城は1186年、塩谷惟広により築かれました。塩谷氏は源義家の3男・頼純を祖とする源氏一門です。惟広は源平合戦での戦功により、塩谷荘に三千町の領地を得ました。
本家の塩谷氏は惟広の兄・惟頼が継いでいました。しかし、惟頼の子・正義、朝義ともに嗣子が無く、宇都宮業綱の子を養子に迎えました。源姓塩谷氏は朝義の代までで、以後は宇都宮氏(本姓藤原)にちなみ藤姓塩谷氏となります。
庶流である喜連川塩谷氏はもちろん源姓ですが・・・1213年の和田合戦で、惟広の子・塩谷惟守が和田方につき没落。鎌倉幕府での地位を失いました。
4代め・塩谷惟縄には嗣子が無く、本家の藤姓塩谷氏から養子を迎えました。これにより源姓塩谷氏は終わりを告げました。塩谷氏は宇都宮一族でしたが、地理的に那須氏に近く、両家の間を行き来しました。
1423年、塩谷教綱が主君・宇都宮持綱を狩猟に誘って謀殺するという事件が起きました。以後、宇都宮氏と塩谷氏が争うようになります。1458年、今度は塩谷教綱が宇都宮明綱により謀殺されました。両家のいざこざを収めるため、1478年に宇都宮正綱の4男・孝綱が塩谷氏の養子となりました。
1500年頃、塩谷本家は宇都宮方、喜連川塩谷氏は那須氏方として身内で争っていました。
1523年、両家は和睦し、1558年までには孝綱の子・孝信が喜連川塩谷氏の養子となりました。
これにより両塩谷家の間の争いが止むかのように思われましたが・・・
1564年、孝信はわずか10騎ほどで兄・塩谷義孝を討ち取り、川崎城を制圧しました。義孝の子・弥六郎は家臣の宇都野城に落ち延びました。孝信の妻が那須氏の重臣・大関氏の娘であり、塩谷氏と那須氏が対立していたことによります。だからって、実の兄を殺すなんて・・・
その2年後、弥六郎は宇都宮氏、佐竹氏の協力を得て川崎城を奪還。塩谷孝信は喜連川城へ逃れました。以後、塩谷本家と喜連川塩谷家は完全に敵対関係となります。しかし、両家は同じ時にそろって同じ運命を辿ります。それが1590年の豊臣秀吉による小田原征伐です。
本家の塩谷義綱(弥六郎)は、重臣・岡本讃岐守を代理として小田原に参陣させました。その理由は定かではありませんが・・・これが原因で、塩谷本家は改易され、領地は岡本氏のものとなりました。
喜連川塩谷氏はというと・・・塩谷惟久は小田原には参陣せず、かといって後北条氏にもつきませんでした。豊臣秀吉が勝利し、宇都宮城に来ると聞くと・・・ビビッて逃げちゃいましたw困った妻の嶋子は秀吉の元へ単身乗り込み、申し開きをしたのです。すごい度胸ですねw
嶋子を気に入った秀吉は、嶋子を側室に迎えて化粧料として喜連川3500石を与えました。嶋子はなぜこんなに度胸があったのか。そして、なぜ秀吉は嶋子を気に入ったのか。・・・それは、嶋子が小弓公方・足利義明の孫だったからでした。
後に、喜連川の地は嶋子の弟・足利国朝に与えられました。秀吉はこの時、古河公方・足利氏が絶えるのを惜しみ、家督を継いでいた娘と縁組させました。この娘には正式な名前が無いため、足利氏娘と呼ばれています。名前だけだと朝娘。みたいですねw
小弓公方は古河公方の弟で、兄弟げんかの末独立していました。それが、80年の歳月を経て1つの家に戻ったのです。とはいえ、その家臣同士は仲が悪かったそうですが・・・
国朝は朝鮮出兵のため名護屋へ向かう途中、21歳の若さで没しました。そのため、国朝の弟・頼氏が再婚し、頼氏は喜連川氏を名乗るようになりました。喜連川氏は喜連川藩を起こし、喜連川城の麓に陣屋を築きました。
喜連川藩は色々と特権があったようで・・・無位無官の代わり、参勤交代が免除されたり、御所を称することを許されたり・・・徳川幕府とは明確な主従関係が無いなど、かなり異色の存在だったそうです。
その喜連川氏は明治まで続き、明治以降は足利に復姓したそうです。
所在地:栃木県さくら市喜連川
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