2020/09/16
高楯城/青森県五所川原市
高楯城は、不思議な形の堀が残っています。訪問日は2018年5月4日です。

高楯城は住宅街の奥にあります。
道が斜めに分岐する所に、この標柱があります。
この奥に妙竜寺があり、その奥が城跡です。

城跡の入口に、高楯城の説明板があります。
脇にある再会の碑は・・・誰とでしょうか?w

城内へは、クネックネッと折れた道を上がって行きます。
この辺も往時の形が残っていそうな感じです


上がる前に見える光景です。
左側が3郭の城塁です。
3郭に沿って細長い帯曲輪が続いています。

お城を意識したっぽい建物のある所が3郭です。
細長い曲輪で、奥には石碑が1つあります。
「ゆきとともにいきる~」で始まる青年団歌の碑ですけど♪
写真の左脇から下りられるようになっています。

歌の石碑脇から下りた所が、2郭と3郭を隔てる堀切です。
堀切はちょっとわかりづらい位に浅いですが・・・

奥から2郭を振り返り、奥に見える高い所が3郭です。
堀切は、手前の平地と奥の高い段差の間にあります。

鳥居から段々を上がった所が主郭です。

主郭にはいくつか石碑があり、その1つが城址碑です。

その背後をのぞき込むと、奥に向かって堀が伸びています。
堀切なら真横にザックリが一般的ですが・・・w

2郭と3郭の間の堀切から、主郭脇に沿って奥へ進みます。
そんな人が通るよりも、草の生長の方が早そうな感じです。

主郭の一番奥です。
下から見上げても、こんなもん?という高さしかありません。

主郭の奥には、それまでの曲輪の続きのように堀が続いています。
堀というとその両側を分断するために掘られるのが一般的です。
ただこの堀は、主郭奥の左右を隔てる感じで掘られています。
見方によっては主郭まで続く堀底道のようにも見えますが・・・

奥に行くほど深くなり、そして斜面を落ちて行きます。
◆歴史◆
入口の説明板の内容を太字でザックリ書きます。
1278年、安藤貞季により築かれました。
安藤貞季は藤崎城主で、安藤季長の別名とする説もあります。
安藤季長は鎌倉時代末期に蝦夷管領となった人物です。
安藤季久と骨肉の争いを繰り広げ、鎌倉幕府滅亡のきっかけを作りました。
説明板では「夷治の柵」として築かれたと書かれています。
1341年、藤原景房により堅固な城となりました。
藤原景房が安藤宗季より飯詰を与えられ、城を築いたと書かれています。
某大聖典や他のサイト様では、この年を1344年としています。
当時、北朝方の安藤氏・曾我氏と南朝方の南部氏が争っていました。
しかし、安藤氏が南朝方に寝返ったことで曾我氏が滅亡。
津軽で勢力図が大きく書き変わったのが1341年でした。
安藤宗季は、安藤季長と争った安藤季久と考えられています。
安藤氏内部でも南北両派に分かれて争っていました。
領地を与えているということは、安藤宗季方が勝ったという事ですね!
藤原景房が萬里小路藤房の子と書かれているサイト様が多いですが・・・
萬里小路藤房は従二位中納言まで昇り詰めた、後醍醐天皇の側近です。
ググっても津軽に来たとか、子に景房がいた事などは出てきません。
ただ、晩年にいきなり世を捨て、以後の消息がわかっていません。
そのため様々な説があり、その中に津軽に来たというものもあります。
安藤氏に1229年に滅ぼされた十三氏は、奥州藤原氏の一族でした。
その庶流が安藤氏に仕え、続いていたのかもしれません。
同じ藤原姓ですし、わからないなら!・・・という出来心でしょうか?
1578年、主君の浪岡北畠氏が滅亡
飯詰に領地を与えられた藤原氏は、代々朝日左衛門尉を名乗ります。
説明板では朝日左衛門尉藤原〇〇ですが、一般には朝日〇〇ですねw
朝日氏は、浪岡城の北畠氏に仕える身となります。
しかし1578年、その北畠氏が大浦為信により滅ぼされました。
その後も朝日氏は、津軽で勢力を拡大する大浦為信に抵抗し続けました。
1588年、大浦為信に攻め落とされ廃城に
抵抗し続けること10年目にして、大浦為信により攻め落とされました。
1588年ということは、田舎舘の千徳氏よりも後だったんですね!
田舎舘千徳氏も滅ぼされ、朝日氏への攻勢が強まったものと思われます。
城主・朝日行安は自ら城に火を放ち、摩利支天の如く斬り込んだそうです。
名を重んじる武将らしい最期ですね。
所在地:青森県五所川原市大字飯詰福泉 GPSログダウンロードページ
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