2020/08/24
大浦城/青森県弘前市
大浦城は、南部一族・大浦氏が津軽の拠点とした城でした。訪問日は2018年5月4日です。

大浦城跡は現在、住宅地の中の中学校になっています。
地図右下に赤点で示したその入口に、説明板と城址碑があります。
この前の市街地のどこかに大手門跡があるようですが・・・
路地を1本1本歩き回りましたが見つかりませんでした

悔しくてストビュー見まくってたら、見つけました。
大手門跡の場所は、五代交差点のすぐ北側でした。
見つけましたが、これはこれで悔しいです>_<

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説明板に載っている図です。
現在地がわかりませんが、たぶん中学校が本丸かも?

説明板の脇にある城址碑です。
どっしりした感じがイイですね


平城ということで、現在は跡形もなく中学校です。
とりあえずココに来た!で帰る方もおられるようです。

中学校の南脇には、先ほどとは別の城址碑があります。
中学校の南側から、時計回りに攻めてみましょう。

すると、何となくそれっぽい雰囲気になってきます。
道が堀跡で、リンゴ畑が曲輪でしょうか。

さらに西へ進むと、これゼッタイ堀跡!な所に出ます。
発掘調査後に埋め戻された感じに見えます。

堀跡を示すかのような地面の凹みは、校舎の真裏まで続きます。

地図
大浦城の建物がいくつか、移築され現存しています。
まずは法源寺に移築された門から。
墓地の入口にあるこの門が、どこかの門だったらしいです。
言われないとわからないレベルです


地図
もう1つは、台所が長勝寺の庫裏として利用されています。
長勝寺は津軽家の菩提寺です。
説明板によると、城内に建てられたのが1502年だそうです。
500年以上前からある建物には見えないくらいきれいですが・・・
一部改造はあるそうですが、建築当時の形を保っているそうです

◆歴史◆
1502年、大浦光信により築かれました。
大浦光信は1491年に津軽に配置され、種里城を拠点としました。
これは南部家当主・南部信時が、安東氏に備えるためでした。
それから11年後に大浦城を築き、大浦盛信に守らせました。
以後は大浦城が大浦家5代の本拠地となります。
南部信時は、四男の南部光康を津軽郡代として配置しています。
津軽は、元々は安藤氏が支配する地域でした。
1452年に安藤氏は南部氏に敗れ、蝦夷地へ撤退しています。
その後、津軽奪還のためたびたび南部氏と争っています。
その南部氏が、津軽に一族を配置したのが40年も経ってからです。
両氏のこの年代の攻防がサッパリわかりません。
南部氏の動きから、1452年から誰か別の人物が居たと思われます。
おそらく南部氏側の人物と思われますが・・・
想像するより他ありません

1594年、大浦家の本拠地が堀越城へ移りました。
5代目の大浦為信は、1567年に婿養子となり大浦家を継ぎました。
すると、1571年には津軽郡代・石川高信を破り、津軽一円を奪取。
1576年には大光寺城、1578年には浪岡御所を降し勢力を拡大します。
浪岡御所を攻め落としたことで、安東氏との関係が悪化しますが・・・
1589年に秋田愛季と和睦。
南への道が開けたことで、豊臣秀吉に誼を通じることが出来ました。
これが奏功し、小田原征伐には南部信直より先に参陣することに成功。
津軽一帯を支配する独立大名として、正式に認められました。
南部信直は大浦為信は謀反人であるとし、一時は討伐対象となりますが・・・
大浦為信は困窮する近衛家に莫大な財を投じ、近衛家の猶子となります。
これにより豊臣秀吉とは義兄弟という事になり、討伐は中止。
この頃から津軽姓を名乗るようになります。
1594年、堀越城を築き本拠を移しました。
弘前城築城により廃城となりました。
1609年に津軽家の御家騒動が決着すると、弘前城築城が再開。
この時、大浦城や大光寺城などから、主だった建物が移築されました。
そのため、弘前城築城にともない、大浦城は廃城になったと考えられます。
ただし、いざという時のために土塁は残されたそうです。
所在地:青森県弘前市大字五代早稲田(津軽中学校)
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