2020/08/20
猿賀館/青森県平川市
猿賀館は大きな公園になっています。訪問日は2018年5月5日です。

猿賀館の跡は公園になっており、立派な駐車場もあります。
駐車場からは、かなり大きな池が見えます。
この池の真ん中には、赤い神社があります。
もしや、あれが?・・・な訳ありませんw

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駐車場の端にある案内図です。
猿賀館があったのは、図の右端にある猿賀神社の辺りです。

大きな池の畔を歩いていると、道端に細長い土盛りが


その内側にあるのが猿賀神社です。
社殿、そこそこ大きいですね^^

社殿正面から見て左側に、猿賀館の標柱があります。
周りに同じような太さの杉の木がチラホラあり、ちょっと探しました。
木を隠すなら何とやら、ですw

標柱の周りには、いい感じで土塁が残されています。
開口部もあり、虎口の形もバッチリです

◆歴史◆
乳井玄蕃により築かれたと伝わります。
乳井玄蕃は戦国時代の人物で、乳井福王寺の別当でした。
猿賀神社の猿賀深沙大権現も兼ねており、強大な勢力を誇っていました。
毘沙門大名とも呼ばれ、津軽支配を目論む南部家と対立。
境を接する大光寺城の滝本重行と争いが続いていました。
滝本重行の家臣・後藤宅庸の居館となりました。
1565年6月、乳井玄蕃は滝本重行により暗殺されました。
猿賀で農民どうしの争いを仲裁した帰りだったそうです。
この襲撃で乳井玄蕃を討ったのが、大光寺一の強者・後藤宅庸です。
猿賀館は、後藤宅庸の居館になったようです。
ただ、後藤宅庸でググると別の事績も出てきます。
それは、千徳政氏家臣として、滝本重行との戦で活躍した事です。
乳井玄蕃暗殺から10年後の事なので、鞍替えしたかもですが・・・?
千徳政氏家臣・木村越後の居館となりました。
1575年、大浦為信により大光寺城が攻め落とされました。
滝本重行は、南部へ去ったとされています。
この大光寺城攻めには、乳井建清とともに千徳政氏も協力しました。
猿賀館は、その千徳氏の家臣・木村越後の居館になったとされます。
1594年、津軽為信(=大浦為信)は、浅瀬石城の千徳氏を滅ぼしました。
千徳氏と大浦氏は同盟関係でしたが、1590年以降は主従関係となります。
大浦氏改め津軽氏にとって、千徳氏は家臣となりましたが強大過ぎました。
そのため、勢力削減のため領地と家臣の人数を減らすよう要求。
千徳政康が反発したため、津軽為信が千徳家中を分断。
内応した木村越後により浅瀬石城は陥落し、千徳政康が自害しています。
その後の木村越後がどうなったのか、ググっても出てきませんが・・・
弘前城の南側に、木村住宅という上級藩士の屋敷があるそうです。
もしかしたら、江戸時代にそちらへ移ったかもしれませんね。
所在地:青森県平川市猿賀字石林
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