fc2ブログ

猿賀館/青森県平川市

猿賀館は大きな公園になっています。
訪問日は2018年5月5日です。

猿賀館【1】

猿賀館の跡は公園になっており、立派な駐車場もあります。
駐車場からは、かなり大きな池が見えます。
この池の真ん中には、赤い神社があります。
もしや、あれが?・・・な訳ありませんw

猿賀館【2】改
拡大表示

駐車場の端にある案内図です。
猿賀館があったのは、図の右端にある猿賀神社の辺りです。

猿賀館【3】

大きな池の畔を歩いていると、道端に細長い土盛りがラブラブ

猿賀館【4】

その内側にあるのが猿賀神社です。
社殿、そこそこ大きいですね^^

猿賀館【5】

社殿正面から見て左側に、猿賀館の標柱があります。
周りに同じような太さの杉の木がチラホラあり、ちょっと探しました。
木を隠すなら何とやら、ですw

猿賀館【6】

標柱の周りには、いい感じで土塁が残されています。
開口部もあり、虎口の形もバッチリです合格


◆歴史◆

乳井玄蕃により築かれたと伝わります。

乳井玄蕃は戦国時代の人物で、乳井福王寺の別当でした。
猿賀神社の猿賀深沙大権現も兼ねており、強大な勢力を誇っていました。
毘沙門大名とも呼ばれ、津軽支配を目論む南部家と対立。
境を接する大光寺城の滝本重行と争いが続いていました。

滝本重行の家臣・後藤宅庸の居館となりました。

1565年6月、乳井玄蕃は滝本重行により暗殺されました。
猿賀で農民どうしの争いを仲裁した帰りだったそうです。
この襲撃で乳井玄蕃を討ったのが、大光寺一の強者・後藤宅庸です。
猿賀館は、後藤宅庸の居館になったようです。
ただ、後藤宅庸でググると別の事績も出てきます。
それは、千徳政氏家臣として、滝本重行との戦で活躍した事です。
乳井玄蕃暗殺から10年後の事なので、鞍替えしたかもですが・・・?

千徳政氏家臣・木村越後の居館となりました。

1575年、大浦為信により大光寺城が攻め落とされました。
滝本重行は、南部へ去ったとされています。
この大光寺城攻めには、乳井建清とともに千徳政氏も協力しました。
猿賀館は、その千徳氏の家臣・木村越後の居館になったとされます。

1594年、津軽為信(=大浦為信)は、浅瀬石城の千徳氏を滅ぼしました。
千徳氏と大浦氏は同盟関係でしたが、1590年以降は主従関係となります。
大浦氏改め津軽氏にとって、千徳氏は家臣となりましたが強大過ぎました。
そのため、勢力削減のため領地と家臣の人数を減らすよう要求。
千徳政康が反発したため、津軽為信が千徳家中を分断。
内応した木村越後により浅瀬石城は陥落し、千徳政康が自害しています。

その後の木村越後がどうなったのか、ググっても出てきませんが・・・
弘前城の南側に、木村住宅という上級藩士の屋敷があるそうです。
もしかしたら、江戸時代にそちらへ移ったかもしれませんね。


所在地:青森県平川市猿賀字石林

青森県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR