2020/08/18
浅瀬石城/青森県黒石市
浅瀬石城は津軽郡代・石川高信を支えた千徳氏の城でした。訪問日は2018年5月5日です。

いきなりですが、西側の舘神社の所です。
真正面から城攻めした方が少ないかもしれません

ココに説明板と城址碑があります


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説明板です。
「浅石城」は別名です。
このまま歴史の所に丸写ししたくなる内容ですw
イラストが可愛らしいですが、一応復元予想図です。
ただ、正面の橋がどこに架かっていたのかが?でした。

もう1つの主役の城址碑です。
紹介する名前は城址碑>説明板>標柱の順に決めています。
・・・今決めました(`・ω・´)v

説明板と城址碑の所にある道は、実は本丸の南側の堀跡です。
道を上がるとリンゴ畑ですが、大きな堀の跡がクッキリ残っています。

説明板と城址碑のある方を振り返った所です。
堀底道だったように見えます。

説明板と城址碑の所から、道沿いに時計回りに進みます。
すると、本丸がこんなに高く見えます。

そのまま道を進んで本丸を回り込むと、大きな門のような地形に。
往時も道なら、ここが大手門なるのでしょうが・・・
説明板の図では、水堀から空堀に変わっている場所です。

そのまま進むと、凹んだ地形がまっすぐ続きます。
ここが本丸と二の丸を隔てていた堀で、本丸は右側です。

こんなに大きな堀が、おおよそ300メートル程続いています。

本丸内部です。
どこもかしこもリンゴ畑になっています。
あの小屋の辺りに御殿があったのでしょうか?
◆歴史◆
千徳氏の城でした。
築城者や時期は諸説ありますが、一戸氏が築いた点では共通しています。
最も古い説では鎌倉時代で、1240年に一戸重行が築いたとしています。
この時期、南部氏の勢力はまだ津軽には及んでなかったと思いますが・・・
その他、南北朝時代の説、1502年、1539年などがあります。
いずれも千徳氏により築かれたとしています。
千徳氏の本拠・千徳城は、現在の岩手県宮古市にありました。
とっても離れていますw
南部氏が安藤氏と戦い津軽に進出したのは、1400年代後半です。
津軽郡代を置いたのが1498年なので、それ以降だと思います。
なので、この時期に近い1502年か、石川高信が来た1540年頃かも。
石川高信を補佐した千徳政吉が、この時期に移って来たとされます。
1571年頃、大浦為信に同調して石川高信を滅ぼします。
この時の城主は、千徳政吉の子・千徳政氏です。
ただ、この辺は記録が錯綜して何を信じたら良いのか?だったりします。
津軽家側では1571年、南部家側では1581年の出来事となっています。
しかも、千徳政氏が浅瀬石城に来たのが1583年って・・・
後に南部軍に攻められた時期などからは、こっちの方がスムーズです。
こっちの記録では、1583年に千徳政吉が没しています。
それまで千徳政氏は、本拠の千徳城(宮古市)に居たことになっています。
1585年4月、南部軍に攻められました。
離反に激怒した南部信直により、浅瀬石城が攻められました。
千徳政氏は、単独で南部軍3千を撃退しています。
理由は不明ですが、大浦為信は千徳政氏への援軍を送っていません。
もしかしたら、南部信直による策で両者の仲を引き裂いたのかも。
千徳氏→大浦氏の順に各個撃破する予定だったのかもしれません。
翌月、千徳政氏は田舎館城の千徳政武を攻め滅ぼしています。
この時は、大浦為信も兵を出しています。
大浦氏側が、南部氏の策でズタズタになっていたように思われます。
1597年、廃城となりました。
千徳政氏の子・千徳政康の代に、津軽為信との同盟が破綻。
津軽軍に攻められ落城し、千徳政康が自害したとされます。
何があったのかサッパリ???ですが・・・
1585年からの遺恨を引きずっていたとする説が有力です。
1590年の小田原攻めで、津軽為信は南部信直に先んじ参陣。
津軽一帯が、正式に南部家から分離されました。
南部信直の怒りは凄まじく、九戸政実の乱でもひと悶着ありました。
討伐軍に参加していた南部信直は、浅野長政に仇討を願い出ています。
1597年頃は豊臣秀吉が没する直前で、世情が不安定でした。
豊臣秀吉に禁じられた私闘が解禁されるかもしれない・・・
そう踏んだ南部信直が、津軽家側の分断を図ったのかもしれませんネ。
所在地:青森県黒石市大字浅瀬石字山辺 GPSログダウンロードページ
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