2020/08/07
西袋陣屋/埼玉県八潮市
西袋陣屋は、関東郡代・伊奈氏の家臣・興津氏が構えた館でした。訪問日は2020年8月6日です。

西袋陣屋は、住宅街のど真ん中にあります。
南側の県道から少し入った所にあり、北へ入ると駐車場に出ます。
この駐車場、何の駐車場かどこにも書かれておらず・・・
公園のかも?と、端っこを少しだけ拝借しましたm(_ _)m

公園の南西端には、小さな祠のある土盛りがあります。
わざわざ盛る所でもないので、往時からあったものと思われます。
位置的には南側の曲輪の北西端に当たります。
もしかしたら、お城に倣って天守っぽい建物を建てたのかも( *´艸`)

公園の入口は西側にあります。
こうしてみると、普通の公園にしか見えません。

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入口の左側にある白い板がこれです。
避難場所の案内も兼ねた説明板です。
バリバリに劣化していますが、文字は辛うじて読み取れます。
左下に往時の図があり、南北に2つの曲輪が描かれています。

どこの公園にもあるとは思いますが・・・
名前が名前なので、私には城址碑にしか見えません(`・ω・´)
下の2文字は、今見えましたw

公園の北から東にかけて、うっすらと土が盛られています。
往時の土塁の名残なのか、土塁の位置を示すために盛られたのか・・・
それでも、ちゃんとこうして「ある」ことが重要です!

土塁の外側には、細い水路があります。
これが堀跡なのだそうです。
埋められはしたものの、水路としての需要があったんですね。

水路は北東の角で直角に曲がり、東側にもあります。
まっすぐだと堀跡?ですが、外周に沿っているので堀跡!です^^
市街地のど真ん中に、こうして残されているのは奇跡的です

◆歴史◆
関東郡代・伊奈氏の家臣・興津氏の館でした。
「興津」というと、清水の東側を連想します。
興津良次がどの系統なのかが?ですが、元後北条家臣と考えられています。
興津氏は元々は駿河の国人でしたが、今川義忠の代に被官化されます。
今川氏真の代に武田信玄に攻められ、領地を失いました。
その後は故郷を離れ、徳川家臣や後北条家臣になったようです。
関東郡代の伊奈氏は、はじめはかなり北の小室に陣屋を構えました。
1万3千石なので、ココは範囲外だったと思われます。
地理的には約9km西にあった赤山城の伊奈忠治の属領と思われます。
伊奈忠治は初代の次男で、2代目の兄とは別に領地を持っていました。
ただ、関東郡代は徳川家の直轄領を支配するため、各地に代官を置きました。
興津氏は代官だったので、そのため配置されたとも考えられます。
1681年、名主の小澤家に払い下げられました。
詳細が掴めませんが、代官の興津良重が江戸へ移ったためとされます。
この年代は、各地の代官が年貢滞納や横領などで粛清された時期です。
興津良重は1677年に代官になったものの、1681年に辞職。
1687年に在職時の負金を清算しています。
その後は曽根姓を名乗っていることから、懲罰があったかもしれません。
説明板によると、現在の地主も小澤氏なのだそうです。
所在地:埼玉県八潮市大字西袋 GPSログダウンロードページ
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