2020/07/26
石川城/青森県弘前市
石川城は別名「大仏ヶ鼻城」「大渕ヶ鼻城」と呼ばれていました。訪問日は2018年5月5日です。

石川城は大仏公園として整備され、ちゃんとした駐車場もあります。
もちろん、無料です

着いた瞬間、この城塁に気分アガリました


駐車場の端には、立派な城址碑があります。
ここには「大渕ヶ鼻城跡」と彫られています。
お城の名前に関する表記はココだけ。
マイルールでは「大渕ヶ鼻城」で紹介する所です。
ただ、ここは例外として「石川城」として表記します。

一番下の段はグラウンドになっています。
駐車場寄りの端っこに縄張図が(*´▽`*)

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縄張は縄張でも公園の縄張図でした

でも何となくではありますが、曲輪の配置はわかると思います。

案内図の左脇には、広場の端を上がっていく土塁状の坂があります。
ここからも上がれますが、とりあえず反対側の端へ。

石川城は、曲輪が段々になっています。
グラウンドの端は、高さ3メートル程の切岸となっています。

グラウンドの右端から、1つ上の段へ上がる道があります。
ただ、これは往時の道ではないような気が・・・

先ほどの坂道の脇には、まっすぐ上がる階段もあります。
往時からの道は、反対側の土塁っぽいのとこれでしょうか?

上から見たグラウンドの上の段です。
そこそこ広いです^^

階段を上がる時に見えた途中の段です。
居住性ゼロなので、ここに兵を並べて上から迎撃したのでしょうか。

そして最上段です。
最上段の背後は断崖絶壁。
だんだん高くなってストンと落ちます。
確かに鼻っぽい形をしています^^

主郭から見た裏側です。
南側の出羽からの道を見張るのに丁度いい感じ。

フェンス脇には電車を撮るいいポイントっぽい案内がありました。
そう言われるとつい。。。
撮った電車が何なのかは┐(´∀`)┌ですw

主郭を正面から見て左側には、下まで続く土塁状の坂道があります。
城内の通路はこれ1本っぽいですね。
◆歴史◆
1334年、曾我道性が立て籠もりました。
曾我氏は鎌倉時代、平賀郡の代官として大光寺城を本拠としました。
1333年に鎌倉幕府が滅びると、北条一族が落ち延びて来ました。
(安達高景と名越時如)
この時、一族の反対を押して曾我道性が彼らを匿います。
当然の事ながら、周辺勢力に攻め込まれて大光寺城が翌年1月に落城。
曾我道性らは石川城に立て籠もり、5月頃まで持ちこたえます。
石川城が陥落すると持寄城へ移り、11月まで抵抗を続けました。
しかし、安達高景と名越時如はついに降伏しました。
この戦で曾我本家は滅び、岩館の分家が平賀郡を支配します。
安藤氏時代は???です

岩館の分家も1380年頃までに南部家により滅ぼされます。
津軽は下国安藤家の支配地となりますが、石川城については?です。
安藤氏は侵攻してきた南部氏と争い、1442年に津軽を追われます。
蝦夷地に逃れた安藤氏は、津軽奪還のため度々津軽に出兵しています。
津軽は南部氏が支配したハズですが、津軽郡代の赴任は1498年です。
津軽郡代・南部康時は堤浦城を築き、堤光康を名乗るようになります。
その弟が大光寺城に入って大光寺氏を名乗り、兄を補佐しています。
石川城のその間の50年はサッパリ???です。
1533年、石川高信が城主となります。
南部安信が、弟の田子高信を津軽郡代に任命。
石川城を居城として石川高信と改名します。
石川城に入ったのは、堤氏と大光寺氏が健在だったからでしょうか。
石川高信は文武に優れ、兄・南部安信の右腕として活躍。
出羽の安東氏を抑え、津軽支配を安定させました。
1571年、大浦為信に攻め落とされました。
石川高信は大光寺光愛、千徳政吉と大浦為信の補佐を受けていました。
その中の大浦為信が石川城に奇襲攻撃を仕掛け落城。
津軽家の記録では、石川高信はこの時に自害したとされます。
これに対して南部家側では、1581年に病死したとしています。
周辺の出来事に照らし合わせると、津軽家側に分があるように思われます。
石川城は、この時活躍した板垣将兼が入り守将に任命されています。
板垣将兼は出自不詳で、甲斐から来たという説もある人物です。
1600年、板垣将兼が謀反を起こしました。
関ヶ原の戦で津軽為信は東軍につき、美濃へ出陣しました。
その留守を守っていた板垣将兼が、尾崎喜蔵、多田玄蕃とともに挙兵。
津軽為信の居城・堀越城を武力制圧しました。
しかし、関ヶ原で東軍が圧勝すると、板垣将兼らは戦意喪失。
津軽為信の家臣・金信則が総攻撃を仕掛け、板垣将兼を討ち取ります。
1611年、廃城となりました。
津軽藩の新たな拠点として、弘前城が築かれました。
弘前城は、津軽為信が1603年に築城を開始しました。
しかし、1604年に津軽為信が没したため、築城は一時中断。
御家騒動もあり、築城再開は2代目藩主が確定した1609年でした。
尚、この御家騒動で金信則は粛清され切腹しています。
弘前城の築城には、石川城や大光寺城が部材として利用されています。
そのため、弘前城の完成とともに、石川城は廃城となりました。
所在地:青森県弘前市大字石川字大仏 GPSログダウンロードページ
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