2020/07/23
大光寺城/青森県平川市
大光寺城は、津軽郡代を補佐した大光寺氏のお城です。訪問日は2018年5月4日です。

城跡は街中にあって、大きな公園となっています。
その一角に公民館があり、ここに車を停められます。

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上の写真に写っている説明板の図です。
大光寺城は平城で、現状は縄張りを無視して道が・・・
ということで、遺構らしい遺構がありません。

駐車場の隅に、天を衝くような城址碑があります。
こっち方面が好きな方には、それだけで訪ねたくなりますよね?
私も、そっち方面、大好きです


上の図では、公民館の前の道と堀が重なって描かれていました。
ということで、堀跡の道です。
・・・面影はありません


公民館の裏の公園というか広場です。
ここが主郭でした。

そんな中、1か所だけそれっぽい所があります。
それが亀甲門跡です。
場所はコチラです。

亀甲門は大光寺城の大手門でした。
そういう目で見ると、左の水路が門の前の堀跡のようです。
そして、道が曲がっているのが枡形の名残でしょうか。
・・・両サイドの家が、だんだん櫓っぽく見えてきました。
また一歩、あっち側へ進んじゃったようです


実は亀甲門は、別の場所で今でも見ることが出来ます。
それが、弘前城の北門です。
弘前城北門の説明板にも、大光寺城の門だったと記されています


そしてもう1つ、移築門では?と囁かれている門があります。
それが、誓願寺の山門です。地図です。
この門も弘前城の近所にあります。
見た目は城門らしさを失っているように、私は感じます。
この門は国指定の文化財で、説明板があります。
その中には大光寺城についての記述は全くナシ。
門の下の方が室町期、上の方が江戸時代中期の工法なのだとか。
この文面からすると、上の方は何かの理由で破損したのかもしれません。
◆歴史◆
古館→五日市館→新城の順に推移しました。
大光寺城は、平賀郡統治の中心的な拠点でした。
はじまりは鎌倉時代で、1217年に平広忠が地頭代として着任。
乳井の北西隣の岩館に城を構え、曽我姓を名乗るようになります。
その後、曽我氏は大光寺古館の本家と岩館の分家に分かれます。
古館は、大光寺城の北北西約500メートルの所にあったとされます。
1333年に鎌倉幕府が滅びると、北条一族が落ち延びて来ました。
本家の曾我道性がこれを受け入れたため、周辺勢力に攻められました。
曾我道性は滅ぼされ、岩館の分家が大光寺を支配するようになります。
その後、1380年頃に南部氏に攻められて滅ぼされました。
曾我氏滅亡後、安藤氏が大光寺を支配しました。
安藤氏は安部貞任の次男・高星を祖と称する一族です。
鎌倉時代は蝦夷管領で、北海道と青森県の八戸以外を支配していました。
津軽の十三湊を本拠とし、海運を中心に栄えた一族です。
大光寺に入った安東秀光は、五日市に館を築き大光寺姓を名乗りました。
その後、男児が絶えた大光寺氏は、葛西頼清を婿養子に迎えます。
この葛西頼清の代に、南部家との争いに敗れています。
「葛西頼清」でググると1430年頃、1510年頃、1533年と色々出ます。
下国安藤氏と南部氏の争いの時期から、1440年頃と思われます。
安藤盛季は1442年に南部義政に敗れ、蝦夷地へ移っています。
葛西頼清は日本海側の深浦へ移り、元館(深浦館)で暮らしています。
南部氏により新城が築かれました。
時期がよくわかりません。
津軽郡代として1498年、南部信時の四男・達子光康が赴任しました。
達子光康は堤ヶ浦(青森市)に城を築き、堤姓を名乗るようになります。
大光寺城にはその子が入り、大光寺経行と名乗ったと思われます。
その後、北信愛が一時城主を務めたとされますが、時期は不明です。
後に南部家の家老となる北信愛ですが、足跡が確かなのは1571年以降です。
北信愛は1571年時点では、三戸と八戸の間にあった剣吉城に居ました。
石川高信が大浦為信に滅ぼされ、田子信直が南部晴政に襲われた時期です。
北信愛は田子信直を助け、南部晴政と対立して剣吉城を攻められました。
脱線しましたが・・・
北信愛の後は、子の大光寺光愛が城主でした。
乳井古館の歴史を調べた時には、補佐役の滝本重行が城主でした

後に大浦為信を攻めた比山六郎・七郎は、大光寺光愛の子のようです。
大光寺光愛は、千徳政吉・大浦為信とともに津軽郡代・石川高信を補佐。
しかし、1571年に大浦為信が石川高信を攻め滅ぼします。
この時に、大光寺光愛は子を連れて安東氏の比内地方へ逃れたようです。
北信愛が絶体絶命の南部信直をなぜ守ったのか、腑に落ちた気がします^^
1576年正月、大浦為信に攻め落とされました。
大光寺光愛が落ち延びた後も、猛将・滝本重行は城を守り続けました。
1575年11月、南部信直が滝本重行に高畑城奪還を命じます。
高畑城は大光寺城の支城でしたが、1571年に乳井建清に奪取されています。
その乳井建清は大浦為信に臣従しており、反南部の最前線でした。
滝本重行は高畑城を攻めますが、乳井建清が善戦し守り切ります。
その間、大浦為信が着々と大光寺城攻略の隙を窺います。
そして翌年正月、年始の隙を衝いて大光寺城を攻略しました。
1579年、滝本重行は比山六郎・七郎兄弟に従って挙兵。
大光寺城を奪還するため、乳井茶臼館・古館・乳井城を攻めました。
乳井建清の留守を衝き、大光寺城攻めの拠点としたのでした。
大浦為信も兵を集め、乳井と大光寺の間の六羽川で激戦となりました。
この戦で大浦為信を追い詰めたものの、大光寺城の奪還はならず。
比山六郎は捕らえられ、処刑されてしまいます。
以後、滝本重行は安東氏のもとを去り、南部へと移りました。
一方、乳井建清は大浦為信の下で手柄をたてて家老となります。
そして1582年、大光寺城の城主となりました。
1609年、籠城戦の舞台となりました。
1601年、津軽建広が城代となりました。
津軽建広は元は後北条氏お抱えの外科医でした。
後北条氏滅亡後は浪人となり、何かのツテで津軽家に仕えました。
なぜ津軽姓かと言うと、津軽為信の娘婿だからです。
相当な気に入られようです。
1607年、津軽家でお家騒動が始まりました。
津軽為信の子・津軽信建が没し、家督を弟の津軽信枚が継ぎました。
津軽建広は津軽信建の子が継ぐべきだと幕府へ直訴しました。
しかし、この直訴は退けられ、津軽信枚の家督継承が正式に決まります。
1609年、幕府公認の当主となった津軽信枚は、熊千代派を粛正。
津軽建広も城を追われることとなります。
しかし、津軽建広らは退去に応じず、籠城戦を繰り広げました。
最終的には津軽建広は退去し、江戸へ移りました。
この頃から中断していた弘前城の築城が再開。
その建築材として利用され、大光寺城は廃城となりました。
亀甲門が弘前城にあったのは、このためだったんですね!
所在地:青森県平川市大光寺字三村井
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