2020/07/16
七戸城/青森県七戸町
七戸城は、七戸南部氏の本拠でした。訪問日は2017年5月3日です。

城跡を目指す目印は町役場です。
役場は下館のすぐ下にあります。
目の前の道の真ん中が、広い駐車場になっています。

役場の右の方へ進むと城跡への道がありますが・・・
敢えてこの道には入りません。

そのまま道を進むと、ツツジで有名な天王神社が正面にあります。
それはそれで堪能するも良し!です。
でも、私が目指したのは、ここから左へ曲がった所にあります。

天王神社の手前で左へ曲がると、城門が現れます。
ここにも駐車場があるので、ここに停めてもokです。
私はグルグル回って早く乗れるよう、敢えて手前に停めました。
・・・負け惜しみじゃありませんよヽ(`Д´)ノ

これは、復元された東門です。
色々と推測が入っているようですが・・・
確かにココに何か欲しい所ではあります。
このまま進むと、主郭の北館に直接アクセス出来るので。

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東門の前にある案内図です。
曲輪の配置がわかりやすく描かれています


東門の先は、巨大な堀があります。
人工的に掘ったというより、地形を活かした感じではあります。

この堀跡は花しょうぶ園となっています。
青森はまだ桜の季節なので、少し早かったようです


奥から見た本城側です。
幅の広い湿地は、まさに天然の堀です。

堀の右側に上がってみました。
こちら側は「貝ノ口」と呼ばれる曲輪でした。
名前の由来はわかりませんが・・・
平らですw

貝ノ口から見た本城です。
広い堀に切り立った城塁

向こう側が遠く感じられます。

貝ノ口から堀に戻り、進めそうな所を素直に進みます。
左へ曲がった先で、舗装道にぶつかります。
振り返ると、道は堀切ですね


道に出たココは、角館という曲輪の目の前でした。
道端に、角館の標柱が立っています。
内部は普通に住宅街となっています。

道の反対側には北館の標柱が立っています。
ということで、この道は2つの曲輪を隔てる堀跡のようです。

北館の道沿いには、北館地区建物模型があります。
とても興味をソソられましたが、先客が居ました。
私は人見知りシャイボーイなので、先客が居ると突撃出来ません。

さらに進むと、道の反対側に西館の標柱があります。
城跡の南側は、道を挟んで曲輪が並んでいました。

この道が本城に到達すると、水堀が現れます。
高い所にある水堀、ちょっと珍しいかもしれません。

水堀に沿って進みました。
本城に入る道があり、そこから見下ろした水堀です。

本城に上がる道です。
後付けっぽさが感じられますが、如何でしょうか?

本城の水堀側には、立派な土塁があります。
表面が綺麗にペッタンコなので、近世の復元物のようです。

水堀に戻り奥へ進むと、こんもり土盛りが現れます。
ココにあるのが姫塚です。
説明板には、お姫様の悲劇が記されています。

姫塚の脇には、最初に通った堀があります。

堀には下りず、そのまま本城へ突入。
公園になっており、きれいに整備されています。

本城の堀側にも土塁があります。
このデコボコ具合は本物ですね


外周に沿って進むと、外へ下る道があります。
ここも往時からある道のようです。
大きなお城なのに、出入口の道はとても狭く造られています。

道の途中に、模擬門があります。
実際、ここに門があってもよさそうな場所です。
あったのかもしれませんが・・・w

そのまま下ると役場前に出るので、本城へUターン。
桜の季節が終わったばかりの公園は、人影もまばらです。

本城の神社側に、立派な城址碑があります。
こっちが普通の入口ですw

本城の一段低い所に神社があります。
案内図では「本丸」と描かれている所です。
江戸時代の代官所はココにありました。

神社の前からも、城外へと通じる道があります。
参道だから真っすぐ!と思いましたが、途中で曲がっています。

下りた所から振り返ると、虎口っぽさが感じられます。

その脇には、短いですが水堀があります。
進路を限定する構造です(*´▽`*)

ここからは、車道がグネグネ曲がってさらに下っています。
この道が大手道です。
正面に見えるグラウンドが下館という曲輪です。

下館の反対側には城塁が迫り、一段下に平坦地が見えます。
この写真の右奥が宝泉館という曲輪です。

宝泉館は西館の腰曲輪で、間は空堀で隔てられています。

前の道を更に下った所が、大手虎口跡です。
ガッツリやられちゃってますが、案内の標柱があります。
言われればココに門あるよね?という感じです。

大手虎口が最終盤で登場するのが、私のブログらしいですw

各所に最初のと同じ案内図がありますが、大手のものは違います。
タイル張りの平面ですが、立体的に描かれています。

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城跡部分を拡大!
台地先端部が堀で隔てられている様子がよくわかります。
戦国時代の主郭・北館は中心、江戸時代の代官所は端にあります。
時代によって、求められるものが変わるという事ですね。

▲青岩寺山門 地図
最後に本物の門が1つ、移築され現存しています。
本丸にあった門と伝わり、明治6年に移築されました。
当初は2層の櫓門でしたが、老朽化のため2階部分を撤去。
間口を狭められて今の形になったそうです。
◆歴史◆
七戸南部氏の居城でした。
築城時期は不明確ですが、室町時代と考えられています。
鎌倉時代の七戸は北条得宗家の領地で、工藤氏が代官を務めました。
1335年、新田義貞との戦功により南部政長の領地となります。
南部政長は南部師行の弟で、兄の死後、南部家を継ぎました。
以後、兄の遺言を忠実に守り南朝方として戦い続けました。
しかし、1353年に北畠顕信が吉良貞家に敗れ出羽へ敗走。
南朝方が圧倒的に劣勢となる中でも、信念を貫きました。
晩年には南部政長降伏の噂が流れ、北朝方の勝利が決定的となります。
そんな1360年、南部政長は没しました。
南部政長は嫡男の未亡人に七戸、嫡孫の南部信光に八戸を譲りました。
嫡男の未亡人は、回りくどいですが嫡孫の母親ですw
その後、七戸は南部信光の弟・南部政光に与えられます。
南部政光が七戸に入った時に七戸城が築かれたとする説が有力です。
七戸南部家は、八戸南部家の分家です。
南部政光は兄の没後、八戸南部家の家督を継ぎました。
一時は南部家の根拠地・甲斐に移りますが、南北合一後は根城に戻ります。
兄の遺児・南部長経に八戸南部家の家督を譲ると、七戸城で隠居します。
以後、七戸は南部政光の家系が継いで行きます。
2度落城しています
1456年と1483年、七戸城は戦火に遭い落城しています。
1456年9月、蠣崎蔵人に攻められ七戸城が落城しました。
蠣崎蔵人は南部家臣で、下北半島先端の蠣崎を治めていました。
これに対し、三戸と八戸の南部家が連合し討伐。
12月には七戸城を奪還し、1457年4月には蠣崎の地も制圧しました。
敗れた蠣崎蔵人は蝦夷地へ逃れています。
同時期に蝦夷地でコシャマインの乱があり、武田信広が鎮圧しています。
武田信広は若狭武田氏一族で、安藤氏を後ろ盾としていました。
安藤氏は南部氏と津軽を巡って争った仇敵でした。
蝦夷地の乱と下北半島の乱を結びつける解釈も存在しています。
1483年の落城は、三戸南部家の御家騒動でした。
乱を起こしたのは南部彦四郎ですが、どんな人物だったのか???です

七戸城を攻め落としたもののすぐに捕らえらえ、獄中で自害しています。
1592年、廃城となりました。
城主の七戸家国が、九戸政実の乱で九戸方となりました。
七戸家国は六戸城などを攻めた後、九戸城に籠城します。
落城寸前に南部信直の陣に突撃し、壮絶な討死を遂げました。
これにより、七戸氏は一度断絶します。
城は破却され、七戸は南信義の三男・南直勝に与えられました。
南直勝は七戸姓に改姓しますが、理由は不明ですが津軽氏に仕えます。
その後は南直勝の兄の子・七戸直時が継ぎました。
盛岡藩の家老を務めており、盛岡城に詰めていたと思われます。
七戸直時には子が無かったため、藩主・南部利直の三男を養子に迎えました。
これが七戸重信で、兄の死後、盛岡藩主となります。
江戸時代には代官所・藩庁が置かれました。
2代藩主・南部重直が没し、七戸重信が南部宗家を継ぎました。
そのため七戸は盛岡藩の直轄となり、七戸城跡に代官所が置かれました。
1819年には盛岡新田藩が立藩し、七戸要害屋敷が藩庁となります。
幕末の藩主・南部信民が奥羽越列藩同盟に参加したことから隠居。
1869年、弟の南部信方に1万石が返還され、七戸藩が立藩しました。
しかし1871年、廃藩置県により廃藩、1873年に破却されました。
所在地:青森県上北郡七戸町字七戸 GPSログダウンロードページ
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