2020/06/29
平良ヶ崎城/青森県南部町
平良ヶ崎城は、南部氏が陸奥で最初に本拠とした城でした。読み方は「へらがさき」ですw
訪問日は2018年5月3日です。

西側に南北に走る道があり、斜めに上がる道があります。
これが平良ヶ崎城跡の目印です。
左脇に見える石碑があり、つい本能で近寄り撮影。
そこに彫られていた文字は「南部町立南部中学校」でした


とはいえ、何も無い訳ではありません。
坂を上り切った所に、文字の書かれた白い板があります。
疑心暗鬼ながら近づくと「平良ヶ崎城について」で始まります


城内の様子です。
中学校跡地ということで、遺構は見当たりません。
まぁ、やられちまったモンは元には戻りません


説明板の背後には、立派な道があります。
これが、台地から城を分断した堀の跡とされます。
堀の形を利用してそうですが、ただの切り通しにしか見えず・・・
しかもこの道、地図に載っていません。
それは造りかけで、このすぐ先で終わっているからです。
重ね重ね、やっちまいましたね



◆歴史◆
南部氏の陸奥で最初の居城でした。
南部光行は、奥州藤原氏討伐時の功により糠部郡一帯を与えられました。
地頭となった南部光行が、陸奥での拠点としてココに城を築きました。
その後、南部光行は鎌倉へ戻り、子らに陸奥の領地を分け与えました。
平良ヶ崎城には、次男の南部実光が入りました。
聖寿寺館を築きました。
11代南部信長は、1km西に聖寿寺館を築きました。
これは、平良ヶ崎城が手狭になったからと考えられています。
以後は、平良ヶ崎城が政庁、聖寿寺館が居城となります。
南部晴政が三戸城を築き本拠を移しました。
1539年、家臣の赤沼備中が火を放ち、聖寿寺館が全焼しました。
赤沼備中は南部晴政の寵臣と不仲で、その不満が原因と考えられています。
おそらくこれがきっかけとなり、南部晴政は新たに城を築きました。
そして永禄年間(1556-70)、本拠を三戸城に移します。
その後の平良ヶ崎城についてはわからず

所在地:青森県三戸郡南部町大字沖田面字南古舘
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