2020/06/28
聖寿寺館/青森県南部町
聖寿寺館は、南部氏11代信長から24代晴政までの居城でした。訪問日は2018年5月3日です。

車を停める場所を探すのが・・・だったので、案内所に停めました。
すぐ近くにあって、堂々と停められて、タダです

ただ、車を停めた瞬間に職員さんが出てきて、凄く案内してくれました。
時間が無い方は、チョット工夫して下さい

開所時間 | 9時~16時半 |
お休み | 12月29日~1月3日 |
料金 | 南部利康公霊屋の案内等も無料です |

南部利康公の霊屋です。
厳密にはこの建物にスッポリ覆われて保存されています。
案内所の方に開けてもらい見学しましたが、撮影はNGです。
南部利康は南部利直の四男で、南氏の浅水城を継いだ人物です。
父親が一番可愛がったようで、留守の際は父に代わり政務を執りました。
しかし1631年に24歳で没し、南部利直はココに丁重に葬りました。
盛岡藩は霊屋守を置き、この霊屋を守り続けました。

職員さんとは霊屋前でお別れ。
正面の道をまっすぐ進んだ所がココです。
舗装道がここで直角に曲がり、その先から堀が始まります。

北西部分の堀底です。
脇にリンゴ畑があり、その農道になっているようです。
平城としてはまぁまぁの規模ですが、大分埋められている感じです。

堀の先端部です。
西側は断崖になっており、竪堀となって落ちて行きます。
普段なら下りて行きますが・・・
下りたらタダの断崖なので、ここまでですw

振り返ると、かなり長い堀でした


堀に斜めの細道があり、そこから上がりました。
曲輪は、まぁ、広いです。
何たって南部家の居館ですからね!

上から見た北側の堀です。
周りと比べて見たら、かなり大きいです


曲輪の北東の角には、赤い鳥居のお社があります。
場所的には鬼門封じですね!

曲輪の北側の真ん中辺りには、井戸の跡があります。
案内付きのモノは、これが唯一ですw

西側の切岸です。
こちら側は断崖というだけあって、この角度はキツ過ぎます。

南西側には、一段低い曲輪があります。
上の段に比べれば狭いですが、リンゴ畑になる広さではあります。

腰曲輪の端っこには、土塁が一部残っています。
ここに虎口があったのか、無かったのか・・・
下りて見てないので?です。
迂闊でした


東側の堀です。
堀底に家が建ち並ぶ程の規模です。
聖寿寺館は、北と東を堀で断ち切った崖端城です。

少し位置をズラすと、堀の様子がとてもよくわかります。
さすが大名家の居館だけあって、かなりの規模です


東側にも出入口があり、下りて見ました。
何も知らずにココを通ると、堀底とは気付かないかもしれません。
◆歴史◆
14世紀末頃、南部信長により築かれたと考えられています。
南部信長は三戸南部家11代目当主ですが、事跡が???です

ググると3人出てきて、戦国時代の八戸信長ばかりがやけに詳しいです。
南部氏は、源平合戦の功で与えらえた甲斐の領地が名の由来です。
その後、奥州藤原氏討伐でも功を上げ、陸奥に広大な領地を得ました。
初代・南部光行は、平良ヶ崎を本拠と定め城を築きました。
ただ、自身は鎌倉におり、領地の経営は子らを派遣し任せていました。
これが各地の南部一族の祖となっています。
三戸には次男・南部実光が入っています。
その後、平良ヶ崎館が手狭になり、すぐ西に居館だけ移転。
この時に築かれたのが聖寿寺館とされます。
以後、戦国時代まで三戸南部氏の居館として続きます。
1539年6月、家臣の放火により焼け落ちました。
南部家臣の赤沼備中が城に火を放ち、聖寿寺館が焼失しました。
赤沼備中は近習頭の奥瀬重之と不仲だったのと、所領の不満でした。
何が原因で不仲になったのかが?ですが・・・
奥瀬氏の館と赤沼氏の館は7km程しか離れていません。
所領の不満というのは、境界を巡る争いだった可能性があります。
彼らの争いに対し、南部晴政は奥瀬氏に肩入れしていました。
赤沼備中は奥瀬重之を斬殺すると、聖寿寺館に火を放って逃げました。
しかし、下斗米将家が追いかけて赤沼備中を成敗しています。
その後、南部晴政は三戸城を築いて居城を移しました。
以後、聖寿寺館が本三戸城と呼ばれるようになります。
それまでは、ココが「三戸城」と呼ばれていたという事ですね!
所在地:青森県三戸郡南部町大字小向字舘 GPSログダウンロードページ
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