2020/06/27
三戸城/青森県三戸町
三戸城は、、、言うまでもありませんね♡訪問日は2018年5月3日です。

素直に真正面から行けばいいのに、なぜか気が付くと裏側に・・・
私の城跡巡りって、だいたいそんなもんです。
ということで、北東側から三戸城に近づきました。
この川は、北から西にかけて堀代わりとなった熊原川です。

ここはもう、どこだったのかサッパリ思い出せません

橋から下の案内図まで1本道で、その中間で撮ったものです。
ストビュー見てもそれらしいのは橋を渡ってすぐの所か・・・
当時はGPSログを採ったり切ったりしてました。
今は朝から晩まで採りっ放しなので、場所がすぐわかるのですが


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橋から南へ進み、右へ行く道の所にこの図があります。
図ではそのまま城跡に行けそうですが・・・
すぐ先に「この先車両は通り抜けできません」とあります。
なので、さらに南へ進み、西へ曲がって普通に正面から上がりました。

城内の一番奥にある広い駐車場です。
ここは本丸の一部です。

本丸、広いですw

芝生の広場の前にも、アスファルトの駐車場があります。
GWの青森は桜の季節なので、出店が沢山あります。

その駐車場の一角に、文字の書かれた標柱があります。
ここが御三階の跡です。
本丸は、現在の地形からはどうだったのかが想像出来ません。

一部こんな所も。
たぶん、本丸脇にあった谷丸だと思います。

駐車場から西へ進むと、上がってくる道と分岐。
土塁を削った中に模擬天守が見えます。
ここが大御門跡でしょうか?

本丸の1つ外は、南部家一門の屋敷跡となります。
すぐ外のココは、南部政彦の屋敷跡です。

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・・・というのが、この図に描かれています!
こうして見ると、三戸城自体は居館の集合体っぽい感じがします。

ハイ、お約束のショットです。
こういうの、大好きです


その目の前にあるのが糟部神社(ぬかべじんじゃ)です。
お城の中にはよく神社がありますが、創建は明治ですw

西へ西へと向かいます。
鳥居の脇にはしっかりした土塁があります。

すぐ近くにあるのが欅御門跡です。
位置関係は完全の忘却の彼方ですが・・・
鳥居の後ろの土塁が桝形の一部となっています。

一段下は家老達の屋敷跡で、広大な平坦地が広がっています。

欅御門の所で、5メートル程の段差になっています。
一門と家老の格差を見せつけるかのような段差です。

桜庭安房の屋敷跡です。
土塁に囲まれ、羨ましい限りです


家老達のお屋敷の下には、鳩御門という門がありました。
石垣や建物が無くなっても、城キチはお腹いっぱいになれます。
このクネクネ具合、たまりません




綱御門付近から見た鳩御門です。
綱御門を突破してもすぐに次の門が待ち構えています。
寄せ手には心理的ダメージが大きそうです。
鳩御門から綱御門の間の平坦地は武者溜と呼ばれています。

綱御門の内側です。
こちら側から見ると小さな門に見えます。

綱御門の枡形です。
塀には狭間がありますが、もっと多かったかも。
石垣の足元にも土が盛られていて、空間を広く見せて実は狭いです。
視覚的な錯覚で、敵兵を沢山おびき寄せて動きを封じたのでしょうか。

綱門の外側は、高い土塁で囲まれています。
石垣の一部が残っていますが、内側とは積み方が違います。
こっちの積み方がオリジナルですねw

台地の先端部には、物見の火見櫓がありました。
現在は展望台的な「門住亭」と書かれた四阿があります。

ヘアピンカーブの所にも案内図があります。
歩きの人にとっては道が分岐するので、ありがたいですね


遊歩道の入口に、立派な城址碑があります


大手門跡には、門住稲荷神社があります。
往時からあったかもしれない名前です。

南側の斜面を上がる車道には、所々で石垣が見られます。
上の方は盛岡城で使われたのでしょうか。

車道から見た模擬天守です。
城塁はまっすぐではなく、段差が見られます。
高さ的には鉄砲や矢などでの防御を意識したのでしょうか。
◆歴史◆
南部晴政により築かれました。
築城時期は不詳ですが、永禄年間(1558-70)と考えられています。
三戸南部氏歴代の居城は聖寿寺館で、元々はそちらが三戸城でした。
聖寿寺館は1539年に家臣の放火で一時焼失しています。
この時に南部家の文書の多くが失われました。
南部晴政が先代の実子なのか等、不明瞭な事が多々あるそうです。
跡継ぎが無かった南部晴政は、従兄弟の南部信直を婿養子に迎えました。
これが永禄8年(1565)で、三戸城に呼び寄せています。
1570年、南部晴政に男児が生まれると、両者の仲は険悪となりました。
1571年、南部信直の父・石川高信が大浦為信に攻められ自害。
大浦為信は久慈氏出身の南部一族で、南部晴政の関与が疑われています。
1572年には、南部晴政が南部信直を襲撃しています。
その際に南部信直が鉄砲で応戦し、南部晴政が落馬。
介抱した次女の婿・九戸実親にも鉄砲を撃ち掛けています。
しかし、この時はこれだけで終わっています。
1576年、南部晴政の長女(=南部信直の正室)が急死。
身の危険を案じた南部信直は三戸城を出て、田子館に退きました。
それでも刺客を恐れ、各地を転々とするようになります。

1582年、南部信直が城主となります。
1581年という説もありますが、南部晴政が没しました。
その葬儀の直後、今度は家督を継いだ南部晴継が13歳で急死します。
死因は疱瘡とされますが、南部信直による暗殺説もあります。
南部晴政には他に男児が無く、南部家中は後継者を誰にするかで紛糾。
最有力候補は、南部晴政の次女の婿・九戸実親でした。
九戸氏は南部一族で、家中一の軍事力を誇っていました。
その軍事力は、後の乱で宗家を圧倒した程です。
しかし、北信愛が有力者に根回しし、後継者は南部信直となりました。
九戸政実らは猛反発し、禍根を残すこととなります。
1591年、近代城郭として整備されます。
九戸政実の乱は、豊臣秀吉の力を借りてようやく鎮圧されました。
この時応援に来た蒲生氏郷らの普請により、石垣のある城へと変貌します。
御三階櫓が築かれたのもこの時と考えられています。
同時期の和賀・稗貫一揆終結後、その旧領が南部領となりました。
これは、津軽為信が津軽一帯を安堵され、領地が減った分の補填です。
領地がかなり南へ伸びたので、南部信直は居城を九戸城へ移しました。
蒲生氏郷の進言により、さらに南の不来方に城を築き始めます。
これが後の盛岡城となります。
三戸城には城代が置かれ、入念に手入れするよう命じられました。
貞享年間(1684-88)に廃城となりました。
城としては廃されましたが、引き続き代官が置かれました。
以後は三戸古城と呼ばれ、三戸代官所には掃除奉行がありました。
所在地:青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下 GPSログダウンロードページ
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