2020/06/21
久慈城/岩手県久慈市
久慈城は、藪化一歩手前だったのが印象的だったお城です。訪問日は2017年5月5日です。

久慈城跡には迷わず辿り着きました。
駐車場真正面の道端に、とてもきれいな案内図があります


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案内図の中の、城跡部分だけにクローズアップしてみました。
こうして見ると、独立丘陵っぽい舌状台地を堀切で切り離しています。

訪問時に印刷して持ち歩いていた図です。
私のメモ、同じ言葉がヤケに目立ちます


案内図からすぐの所に、馬場跡の標柱があります。
馬場なので「細長い平坦地が伸びてるんだろな」というイメージです。

これが、その馬場跡です


馬場脇には、城内へ上がる階段があります。
この感じは、廃城後に出来た道ですね。

階段を上がってすぐの所に天王社があります。

神社の右側には、そこそこ広い平坦地が広がっています。
図を持っていなければこちらへ進みたくなりますが・・・

神社の左側に、後付け感たっぷりなコンクリートブロックの列が。
往時の通路ではなさそうですが、


山道を登ると、轍のある道に出ました。
右に進むべきか、左に進むべきか。
その場には案内が無いので、図が無ければ迷っていました。
ここでは右へ進むのが正解です。
(左へ進むと最初の車道に出ます)

道を右へ進んだ先に、大きな平坦地がありました。
そこには、崩れた茅葺屋根の四阿があります。
ここが、案内図に赤い印のある三郭です。

すぐ隣には二郭の城塁があり、5メートル程の高低差があります。
どこから登ろう?という感じですが、この写真の所から登っています。

登った所が二郭で、ここにも建造物がありました。
誰か出て来たらどうしよう?なんて、ちょっとだけ怯えていました。
でも、大丈夫!
私が訪ねた時には誰も居ませんでした(*´▽`*)

二郭と主郭も段差があります。
こちらは2メートル程です。
ここも笹に囲まれているので、どこからでも同じ~
ということで、ここから直登ですw

主郭です。
ここには建造物はありませんでした。

さんざん笹藪を掻き分けたのですが、久慈城はまだまだ終わりません。
だって、案内図では奥にイイモン描かれていました。
主郭からそっち方向へ進んでみたらありました

私は標柱無くてもわかります^^

反対側から見ると、段差が歴然としています。
こっちらから近づいて欲しくないオーラが全開です。

堀切の向こう側にも、細長い曲輪があります。
なんとなくですが、こちらの方が笹が若干薄い気がします。

曲輪の先端には、天王社と同じくらいの規模の神社がありました。
雪国なので、山中の神社はこれくらいがメンテナンスしやすそうです。

神社の近くから、下りていく道があります。
ここも堀切っぽい雰囲気があります。

参道は下の舗装道に続いています。
見上げると、やっぱり真っすぐでした。
鳥居を見て、はじめて稲荷神社だと知りましたw
◆歴史◆
久慈氏の居城でした。
別名は新町館、八日館とも呼ばれ、南部一族の久慈氏の居城でした。
築城年は不詳ですが、11代目の久慈信実が築いたと考えられています。
久慈信実は南部家当主・南部時政の次男で、久慈家の養子となりました。
南部時政は1410年生まれ1473年没なので、その間だと思います。
津軽地方を席捲した津軽為信は、この久慈家出身とする説が濃厚です。
久慈信実の玄孫に当たり、大浦家の養子となっています。
大浦為信は南部晴政と対立した石川高信を攻め、勢力を拡大しています。
戦国時代には九戸政実の弟が久慈家を継ぎ、久慈政則となりました。
1592年、廃城となりました。
1591年の九戸政実の乱では、久慈政則は兄に味方しました。
そのため乱鎮圧後に捕らえられ、兄とともに処刑されています。
養父の弟・久慈治光は病と称し出陣せず、南部家に仕えました。
孫の代からは、領地の摂待姓を名乗るようになります。
久慈城は南部信直の直轄となります。
翌年、豊臣秀吉の命令により、南部領内の多くの城が破却されました。
その中に久慈城も含まれており、その代官を久慈治興が務めています。
ググった中では、久慈政則や久慈治光との関係が?でした

摂待氏が「治」を通字としており、そっち系統の人物かもしれません。
所在地:岩手県久慈市大川目町字新町 GPSログダウンロードページ
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