2020/05/20
横田城/岩手県遠野市
横田城は、遠野阿曽沼氏の本拠地でした。訪問日は2017年5月4日です。

この地域では2つの横田城があり、どちらも阿曽沼氏の本拠でした。
こちらの横田城は最初の本拠で、別名・護摩堂山城とも呼ばれていました。
田んぼから数メートル高くなった道の端に、城跡への案内があります。

上の案内から10メートル程進むと、今度は矢印が山の方を指しています。

流石に遠野郡を支配した阿曽沼氏の城跡だけあって、整備されています。
階段は苦手ですが、この角度で階段じゃないとそれはそれでキツイです。

階段は竪堀に沿って設置されています


登り始めてから3分の所に、白い標柱がありました。
そこには「横田城跡登り口」と書かれています。
まだまだ先は長いようです


登って行く途中、段々になっている所に墓地がありました。
これは自然地形ではなく、人の手が加わったものですね。

そのすぐ上にも、平らに馴らされた曲輪がありました。

そして、ついに主郭の目印である薬師堂に辿り着きました。
登り口の標柱で覚悟を決めてから、わずか2分でした(*´▽`*)

大族の本拠ということで、主郭は綺麗にまっ平で広いです


横田城の見所は、曲輪を囲む横堀です。
お堂のすぐ先には、深さ5メートル程の大きな堀があります。

横堀は曲輪を馬蹄形に囲んでいたと思われますが・・・
お堂から突き当たって右方向は、すぐに堀が終わっていました。

反対側は長く伸びていて、深さも幅もかなり大きなものでした。
草っぽく見えますが、背は低いので堀底を堪能出来ます


一番広くて深い所です。
堀底ってなぜか落ち着きます

◆歴史◆
遠野阿曽沼氏の本拠地でした。
阿曽沼氏は下野国を本貫地とする有力な家柄でした。
その所領は武蔵・常陸・相模・安芸など、全国各地にありました。
陸奥国遠野郡は、1189年の奥州合戦の功で与えられました。
鎌倉時代を通して代官支配が行われ、下向して来たのは室町時代です。
建保年間(1213-19年)に、阿曽沼親綱が城を築いたと伝わります。
1437年、岳波太郎、唐鍬崎四郎らに攻められました。
岳波太郎と唐鍬崎四郎の兄弟が、気仙郡の千葉伯耆守を攻めました。
阿曽沼秀氏はこの攻撃に誘われましたが、不忠と諭して断っていました。
千葉伯耆守を破った岳波太郎と唐鍬崎四郎が、余勢を駆って攻めて来ました。
両名は大した兵力ではなかったそうですが、阿曽沼秀氏は籠城しました。
この頃の遠野郡は内輪揉めがあったようで、静観する者が多かったそうです。
阿曽沼秀氏は南部守行に助けを求め、南部軍700名が駆けつけています。
阿曽沼秀氏は岳波太郎らの撃退に成功しましたが・・・
岳波太郎方の大槌氏を攻めた際、南部守行が矢に当たり戦死しています。
天正のはじめ頃に廃城となりました。
天正年間(1573-92)はじめ頃、阿曽沼広郷が鍋倉山に新城を築きました。
これは、目の前の猿ヶ石川でたびたび洪水が発生するためでした。
阿曽沼広郷は新城に本拠を移し、そちらを横田城と呼びました。
旧の横田城は、この時に廃城となりました。
所在地:岩手県遠野市松崎町光興寺 GPSログダウンロードページ
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