2020/05/19
鱒沢館/岩手県遠野市
鱒沢館は長泉寺の裏山にありました。訪問日は2017年5月4日です。

登城口として紹介されることの多い長泉寺です。
長泉寺は鱒沢左馬助により1574年に創建されたお寺です。
正面には鱒沢館の説明板が設置されています


境内の左奥に、城内へと通じる道があります。
城跡の削平地が見え、楽勝楽勝♪なんて気分でいました。

削平地まで登ると、早速横堀が出迎えてくれました!
この横堀が、鱒沢館の段々になった曲輪を囲んでいます。
なので、堀底を進んで行けば主郭まで辿り着けるのですが・・・
目の前を埋め尽くすのは、野茨の藪です。
とりあえず下草の薄い杉林までと、野茨の薄そうな所を進みました。

杉林まで辿り着けばこっちのモンです。
下草が無いので、ストレス無く進むことが出来ます。
横堀にも草が無いので、とてもよく見えます


しかし、杉林は割とすぐに無くなってしまいました。
訪問前に参照したのとは様子が違い、木が伐採されていました。
これは城跡を整備しようという感じではなくとても雑な感じ。
遺構が破壊されていないか心配になってきました。

下の方とは違い、木が伐採されていても野茨はありませんでした。
伐採されてからの年数が浅く、植生の変異が進んでないようです。
あれから3年経ってるので、もう野茨が進出して来てるかもしれません


横堀の内側には、7、8段の曲輪が連なっている、はずでした。
パッと見では、緩やかな斜面が続く自然地形に見えてしまいます。

最上段には小さな祠があります。
中には稲荷神社と八幡神社とかかれた小さな木片が並んでありました。

横堀は、最上段の主郭でUターンして南東へ下って行きます。
祠まで登って中の写真は撮っていたのですが・・・
主郭の裏の堀切を何故撮らなかったのか、私の中でも謎です


城跡の東側は、山頂までガッツリ伐採されています。
堀跡の途中には、外側の土塁を破って車が通った跡があります。
外側の土塁は、どうやら破壊されてしまったようです。
こうなる前を見ていないので、何とも言えませんが・・・

南東側は重機で馴らされた形跡があり、横堀も痕跡が残っているだけです。

伐採用の道がどこに続いているのか気になり、道を下ってみました。
道は、城跡の南側の集落に通じていました。
野茨の原を避けて登るなら、こちらから登った方がよさげです。
◆歴史◆
阿曽沼一族・鱒沢氏の城でした。
阿曽沼氏は下野国を本貫地としました。
平安時代末の1189年、奥州合戦の功により遠野の地を与えられています。
南北朝時代までは遠野には下向せず、代官を派遣していたと考えられます。
鱒沢氏は室町時代に、阿曽沼光綱の次男・守綱から始まります。
おおよその年代は、1450年以前だったと考えられます。
(1450年に弟の宇夫方守儀が攻められた時、援軍として出陣しています)
この時、阿曽沼宗家は援軍を出さなかったようで、以後対立します。
葛西晴信は阿曽沼広郷宛の手紙で、鱒沢氏には油断するなと記したそうです。
1590年、南部家の支配地となります。
奥州仕置により、阿曽沼家は領地を没収されました。
阿曽沼家は南部家に属するという条件で、旧領地に留まりました。
1600年、鱒沢広勝が遠野騒動を起こしました。
関ヶ原の戦の時、東北地方では上杉景勝が西軍として活動しました。
南部利直は徳川家康に味方し、阿曽沼広長もともに出陣しました。
その隙を衝いて、鱒沢広勝が阿曽沼広長の居城・横田城を乗っ取りました。
阿曽沼広長は正室の実家・世田米城を拠点に、伊達軍の加勢を得ました。
奪還戦は激しさを増し、鱒沢広勝は戦死しています。
鱒沢広勝の子・鱒沢広恒が戦を引き継ぎ、阿曽沼勢を撃退しました。
敗れた阿曽沼広長は、世田米城で余生を過ごすこととなりました。
一方の鱒沢広恒は南部利直の養女を娶り、2000石に加増されています。
阿曽沼広長は、伊達政宗を頼った事などから南部家に反抗的だったようです。
1610年頃、鱒沢氏が滅ぼされました。
鱒沢広恒に謀反の疑いがあるとして、南部利直から自害を命じられました。
南部利直養女との夫婦仲が悪く、三戸に帰ってしまったのが原因だそうです。
身の危険を察した鱒沢広恒は出奔し、身を隠したそうですが・・・
江戸城下で追手に見つかり、自害しました。
鱒沢広恒の子・松千代も処刑され、領主としての鱒沢氏は滅びました。
松千代が処刑された場所が、長泉寺のかやの木の下だったと伝わります。
所在地:岩手県遠野市宮守町上鱒沢 GPSログダウンロードページ
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