2020/05/18
土沢城/岩手県花巻市
土沢城は、盛岡藩が仙台藩に備えて築いた境目の城です。訪問日は2017年8月7日です。

城跡は公園になっており、入口が南東側の道端にあります。
徒歩ならこのまま左側の階段を上がれば良いのですが・・・
車を停められる所が見当たらず。
とりあえず真正面の「堀跡」を進みました。

城塁に沿って轍の堀跡が続いています。

奥の左カーブを曲がると、道端にほんの少しスペースがありました。
この先Uターン出来ないと嫌なので、とりあえずここに停めました。
過去の経験(トラウマ)から、欲張って深入りしない方が安全デス


堀底道はまだまだ奥へと続きます。
車を置いて来たのは、未舗装の道だからというのが大きいです。

そのままズンズン進み、ここで堀が終わっていました。
舗装された道があるので元の場所に出たかと思いましたが・・・

城塁の真ん中辺りに出たようです。
未舗装の車道はココでおしまい。
狭くてUターンするのが大変そうです。
城塁側に見える標柱には「大手橋跡」と書かれています。
堀底進ませといて、最後にはその堀を渡らせるんですね!
江戸時代初期に築かれただけあって、かなり凝った造りです。

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大手橋の標柱脇に、説明板と図があります。
その図だけイタダキました。
お城全体はかなり広大で、館山公園はその右側1/4しかなさそうです。

大手橋跡の先のココが何となく門っぽい!
ちょっと変わった冠木門もあるし、そうなのかと思いましたが・・・

ここにあったのは「大手桜丸跡」の標柱でした。
堀があって橋があって、そのすぐ上にある曲輪です。
城の入口を守る重要な場所ですね


大手桜丸の先には、城塁に沿って細~いが続いています。
ここが大手道です。
堀底道も城塁の下を回っていますが、ここも守り易い造りになっています。

大手道から上がった所が西館です。
やっぱり、城塁の上はとっても広いです。

端からは最初に通った堀底道が丸見えです。
攻め寄せてくる敵は、土塁で狭められた堀底道に限定されますね。

西館の端には、土塁の痕跡が残っています。

続いて中館です。
いわゆる主郭ですね

とても広く、向こう側が見えません。

場所は忘れてしまいましたが、大手門跡があります。
端っこがそこだけ窪み、虎口があったんだ~という雰囲気はあります。

虎口も大好きなので、当然ジロジロ見に行ったのですが・・・
植え込みがあるせいか、ちょっとよくわかりません

カギ型に曲がっているように見えますが、どうでしょうか。

あとは整備された城跡らしく、主郭に説明板があります。
これすら無い城跡が多いので、あるととても嬉しくなります


そ・し・て、城址碑もバッチリあります

石の配置が何となくストーンサークルっぽく見えなくもないですが・・・
これもデザインですよね(*'▽')

東の端から見た中館です。
やっぱり反対側が見えません(*´∀`)

最後に東館です。
西館・中館・東館は、境目を撮った写真がありません。
普通は堀や段差などで曲輪どうしを隔てることが多いです。
何となくですが、植え込みで分けていたような記憶が・・・
東館の真下が、最初に入った堀底道の入口です。
◆歴史◆
1612年、南部利直により築かれました。
仙台藩との境に近いことから、藩境警備のため築かれました。
すぐ南にある安俵城は、1600年の岩崎一揆で和賀旧臣に攻められました。
時期的には徳川家康と豊臣家の関係が悪化した時期だと思います。
そのため、伊達政宗に対する警戒心が特に高まったと思われます。
城普請は1年で完成し、江刺隆直が2000石で城主となりました。
1647年、火事で焼けたものの再建されました。
1670年、廃城となりました。
仙台藩への警戒が必要無くなったようで、土沢城は廃城となりました。
なぜなんだろう?と思い調べてみると、仙台藩がグダグダでした。
1660年に藩主・伊達綱宗が21歳で隠居を命じられました。
これは藩内の権力争いを制することが出来ず、藩主失格とされたためでした。
そのあとを継いだ藩主が、当時2歳の幼子でした。
そのため、仙台藩内の権力争いは激しさを増しています。
このまま行けば仙台藩は改易になる?と踏んだのかもしれません。
実際、1671年には伊達騒動が発生し、改易の一歩手前となっています。
ただ、南部家でも1664年に分割相続があり、盛岡藩は2万石減っています。
これらの状況から、城の維持費を切り詰める為だったのかもしれません。
所在地:岩手県花巻市東和町土沢 GPSログダウンロードページ
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