2020/05/16
安俵城/岩手県花巻市
安俵城は、細長い台地を堀で分断したお城でした。訪問日は2017年8月7日です。

城跡は住宅地となっていますが、遺構はそこそこ残っています。
現地での散策は、地図の右下から反時計回りにスタートしました。
城跡の城塁を見ると、さっそく住宅の脇にザックリ削れた跡が見えます。
これは、何でも遺構に見えてしまう悪いクセだったようです


南東側はこんな感じで、帯曲輪がある二段構えだったようです。
傾斜が緩いので、そのまま真っすぐ登れちゃいそうですが・・・
下が沼地だったら、柵を付けるだけで防げそうな感じです。

そのまま北上を続けると、城塁側へ入っていく道がありました。
この感じ、間違いなく堀切ですね


堀底を上がると、上もそのまま堀が通っていました。
かなり改変されてはいますが、ハッキリ堀跡だとわかります。

城内はかなり広い平坦地となっており、現代風な御殿が建ち並んでいます。

城内を北上していると、再び堀跡が現れました。

左側の方が明らかに高く、段差が付けられています。

堀から下ってさらに北の先端部へ。
ここは下の地図で北西端の、道が尖って見える所です。
堀跡っぽく見えますが、下の図では堀ではありません。
ただ、昔からある感じなので、もしかしたら虎口かもしれません。

道の右側には、横へ分岐する堀が見られます。
下に載せた図の、一の郭の左上にある堀の端っこがココです。

城内の真ん中を南北に通る道沿いにある実成寺です。
事前に準備した資料によると、境内で堀跡が見られるらしい!

ということで、境内にあるそれっぽいものです。
思っていたよりもかなり規模が小さかったです。

元の道へ戻り、さらに南下するとT字路へ。
西側を見たものの特に何もなく、出発地点へと戻ります。
出発地点の交差点で、道端にイイモノ発見(#☆.☆#)

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そのイイモノの左半分に載っている図です。
赤丸の現在地が右下にズレていますが・・・
私が見てきたのは三の郭、二の郭、一の郭です。
郭を隔てる堀を上がったり下ったりで戻って来てます。

それと、交差点にあるバス停も見逃してはいけません。
ここには説明板と絵図があります。
屋根付きなので、状態はとてもよろしいです

◆歴史◆
1400年に小原政継が居城としました。
小原政継は和賀家臣・安俵氏の2代目です。
初代の小原義郷は、1370年代に倉沢城を居城としていました。
安俵氏は更木・倉沢・谷内・小山田・黒沢尻・安俵を支配。
和賀家中で四天に数えられる重臣でした。
出自は不詳ですが、和賀氏が入部した時から従っていたようです。
この年代は和賀家中が荒れて、刈田氏系が惣領になった時期です。
1590年、南部氏の城になりました。
奥州仕置きにより、主家である和賀義忠が領地を失いました。
これに伴い、安俵氏も領地を没収されています。
和賀氏旧領は南部家の領地となり、安俵城は中野修理が入りました。
しかし、和賀義忠は稗貫広忠とともに挙兵し、領地の回復を図りました。
和賀・稗貫一揆と呼ばれますが、再奥州仕置き軍に攻められ敗れています。
一揆鎮圧後の1592年に、和賀氏の主だった城が破却されています。
この時に安俵城も破却されています。
1600年、岩崎一揆の際に戦場となりました。
関ヶ原の戦の際にも、和賀義忠の子・和賀忠親が挙兵しました。
安俵忠秀はこの挙兵に参加し、安俵城跡を守る南部軍と戦っています。
しかし、安俵城跡を奪うことは出来ず、和賀忠親とともに岩崎城に籠城。
翌春、岩崎城は南部軍に攻め落とされ、岩崎一揆は鎮圧されました。
安俵忠秀は和賀忠親と共に仙台で自害しています。
所在地:岩手県花巻市安俵 GPSログダウンロードページ
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