2020/04/30
黒岩城/岩手県北上市
黒岩城は、和賀氏最初の本拠・岩崎楯だったと考えられています。訪問日は2017年8月7日です。

黒岩城跡は普通に集落となっています。
主郭の南側の道沿いに、お寺の大きな駐車場があります。

そこから徒歩で北へ進むと、住宅街の入口に白い標柱があります。
そこには「和賀氏ゆかりの地黒岩城跡」と書かれています。
もちろん、この道へ入って行きます。

すると、途中で2メートルほどの段差がありました。
これが主郭を囲む堀の跡です。

道の反対側にも堀跡が続いています。

奥へ進むと、ずっと先まで続いていました。

元の道に戻って更に進むと、説明板と鳥居が並んだ広い場所へ。
主郭の真ん中はほぼ畑ですが、その一角にこれがあります。

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説明板に載っている図です。
こうして見ると、かなり大きな城だったことがわかります。

説明板からしばらく奥へ進むと、千曳城の城塁の名残がありました。

続いて、南側を見てきました。
ここは正洞寺の南側にある黒岩地区交流センター周辺です。

コンクリートで覆われていますが、地形は元々こうだった感じです。

この道は絶対に堀跡ですね


さらに南側の元館・・・の1つ北の曲輪周辺です。

この辺の道は、どこも堀跡にしか見えません。
肝心の元館は見逃しました



◆歴史◆
和賀氏初期の居館だったと考えられています。
和賀氏は鎌倉時代初期に和賀郡に来ました。
その最初の居城である岩崎塞が、元館だったと考えられています。
岩崎塞には和賀義盛・義治・時義が居城としていました。
和賀氏はその後、二子城へと居城を映しました。
1476年、柏山氏と和賀氏の戦場となりました。
1470年頃から、和賀氏は葛西氏勢力との争いが続きました。
1470年には葛西氏、1471年には江刺氏と戦っています。
主戦場は対岸の相去だったようですが・・・
1476年には葛西氏の重臣・柏山氏に黒岩城が攻められています。
同年に和賀氏が南の金ヶ崎氏を討っており、相去が境となっています。
これは北上川の西側ですが、東側ではすぐ南に浮牛城があります。
ここには江刺氏が入っており、戦国時代まで緊張が続いたようです。
戦国時代に千曳城が築かれました。
1561年、和賀義治の長男・義信に黒岩が分知されました。
これは和賀義信が盲目で家督を継げないための措置でした。
元々は小田嶋主殿の領地でしたが、同じ石高で領地換えとなっています。
小田嶋主殿は和賀義信の後見となり、片月館に館を構えました。
和賀義信は黒岩月斎を名乗り、新たに千曳城を築き居城としました。
和賀・稗貫一揆を起こした和賀義忠は、黒岩月斎の弟です。
小田嶋氏は領地と居館が離されており、何となく懲罰的に感じられます。
もしかしたら兄弟で争いがあり、月斎を支援していた?のかもしれません。
1590年、廃城になったと考えられます。
奥州仕置きにより、和賀家が改易されました。
これを不服として和賀義忠と稗貫広忠が、和賀・稗貫一揆を起こしました。
一時は両者ともに旧領を占拠しましたが、雪解けとともに討伐されました。
黒岩月斎がどうしたのかが???です。
伊達家に仕えた松山和賀家は、月斎の子孫だとする説があります。
所在地:岩手県北上市黒岩 GPSログダウンロードページ
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