2020/04/29
浮牛城/岩手県北上市
浮牛城は仙台藩領北端にあり、江戸時代は上口内要害でした。訪問日は22017年8月7日です。

城跡の南を流れる川に架かっている橋です。
普通の橋に見えますが、案内図で描かれている大橋跡にあります。

大橋が架かっていた南側の川です。
この川が外側の水堀の役割を果たしていました。

橋を渡ると、すぐに大堀跡の標示があります。
図を見るとわかるのですが、大手門前は二重堀っぽくなっています。

大堀のすぐ先が大手門跡です。
こんな感じで、要所要所に標示があります。
大手門跡は、これが無いとわかりません。

大手門跡から見た城跡です。
とはいえ、城塁の下の平地が二の丸跡です。
際の植え込みが、柵っぽくていい感じです


ここはとてもよく整備されていて、形がわかりやすいです。
下から見上げると、帯曲輪の段差がクッキリ見えます。

城内の道を進むと、要所要所に腰曲輪があります。
中は広いですが、入口は狭くなっています。

本丸へ向かう途中の曲輪も、入口が狭くなっています。
ここには詰御門跡の標示があります。
切岸と切岸に挟まれた細い通路が数メートル続きます。
上に曲輪があるので、上から狙い撃ちにされます。

そんな感じで上って行き、最後の門が本丸門です。
ここは上りながらの虎口となっています。

本丸門脇から見た本丸です。
本丸に入ると、真正面に城址碑が迎えてくれます。
奥には説明板などがあるとても広い曲輪です。

せっかくなのでの城址碑です。
ツルピカなので、撮る角度に気を付けないと文字が写りません。

本丸の奥から見たところです。
説明板の後ろにある縦長の石碑は、武彦神社跡と彫られていました。
これ程しっかり遺構が残っているのは、神社があったからかもしれません。

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説明板に載っている図です。
水堀は東半分だけで、南側は二重堀のようになっています。
図の範囲外ですが、西側にも南北に流れる川があります。
仙台藩領が南部藩をとても警戒していたことが伺える構造です。
◆歴史◆
安部貞任が築いたとする伝承があります
名前の由来が、築城の際に牛を生贄にしたとする伝承があります。
この築城者が安部貞任ですが、どうなんでしょう?
北上する上方軍を止める(または監視する)ためならアリでしょうか。
口内氏により戦国時代に築かれたとされます
口内氏は、江刺家当主の養子・口内重俊です。
築城時期は天正年間(1573~93年の間)とされます。
この時期の江刺家はゴタゴタ続きで、当主すらよくわかっていません。
1582年、江刺三河守が葛西晴信に背き、勘当されています。
この時期にあったのが、九戸政実による葛西領への侵攻です。
戦の勝敗は諸兄のサイトにより真逆なのですが・・・
その後の状況から、葛西側が勝利したように思われます。
以後の江刺家当主は、江刺兵庫頭となります。
三河守は江刺信時、兵庫頭は江刺重恒ですが、同一人物説もあります

奥州仕置き後、三河守は大崎葛西一揆で佐沼城に籠城しています。
一方、江刺兵庫頭は南部家に仕官しています。
たぶん別人でしょうねw
当時の江刺家は、南部家の文書で「江刺再乱」と書かれています。
名目上は葛西家臣でありながら、非常に緊迫した状態でした。
口内重俊は通字から、兵庫頭の後を継いだ人物と考えられます。
奥州仕置き後は主家再興ではなく、南部家に仕えています。
1591年の九戸政実の乱では南部軍として参戦し、戦死しています。
その後は口内重俊の実弟・江刺重隆が家を継いでいます。
1591年、伊達家の城となりました
大崎葛西一揆の後、葛西領は伊達領となりました。
御一家の瀬上景純が城主となります。
南部藩との境を守るため、その後も伊達一族が城主となります。
一国一城令後も上口内要害として残り、脇街道の守りを固めました。
城下町には侍屋敷が80軒、足軽屋敷が100軒あったそうです。
1697年には足軽20名が追加され、飛び地に屋敷を構えています。
上口内要害は、明治時代まで存続しました。
所在地:岩手県北上市口内町松坂 GPSログダウンロードページ
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