2020/04/25
鹿島館/岩手県北上市
鹿島館は和賀一族の有力者・鬼柳氏の本拠だった所です。訪問日は2017年5月4日です。

北側にある正覚寺が、登城口の目印となります。
広い広い駐車場があるので車を停め、ここから徒歩です。
お寺をこんな角度で見ながら左へ進みます。

すぐに正覚寺の墓地が見えてきます。
その前の道端に、かなり大きい説明板が見えます。

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その説明板に載っている鹿島館の図です。
まだ新しいようで、とても綺麗です

正面に見える墓地は、三郭を崩して造成したものだったんですね


さらに進んで石材屋さんを通り過ぎると、山中に入る道があります。
これが鹿島館への登城路です。
これから城跡へ向かうんだ!という雰囲気に満ち溢れています


登城路を登ると、次第に広々した感じになります。
ここは、自然地形を利用した一郭と三郭の間の堀跡です。
登城路の先を見ると、左側に何か見えて来ました(*´▽`*)

城塁の中へ入っていく堀跡に見えますが、実は一郭の虎口です。
すぐ先で曲がっているので、枡形虎口ですね


とはいえ、私は今までずっとこれは堀だと思っていました。
一番奥まで進むと、その先で竪堀になっていましたので。
実は、一郭は元々は堀で隔てられ、北館・南館と呼ばれていたそうです。
それがいつしか堀が埋められ、1つの曲輪になったそうですが・・・
私の目には、堀は埋まっていないように見えました


一郭を堪能した後、元来た登城路に戻って奥へ進みます。
上がり切った所では、しっかり堀らしくなっています。

登城路の突き当りから左側に、土塁を伴った堀があります。
この堀が左側の一郭と右側の二郭を隔てる堀です。
二郭は、東北自動車道を造るために土砂採取されてほぼ消滅しています。

この堀には、手前と一番奥に説明板があります。
これは奥の説明板で、北館と南館について書かれています。

ここから麓に下る道があります。
この道は北東側からの登城路で、下った所にも駐車場があるようです。

続いて、西側の三郭から六郭側です。
最初に登って来た登城路突き当りの右側はこんな感じです。
堀跡になっているのは見えますが、草が多くて入りづらい雰囲気です。
それを見越しての春先の訪問なので、意を決して掻き分けます


大袈裟に書きましたが、ライト藪はほんの10メートル程です。
三郭側は杉林になっており、下草は殆どありません。
こんな感じで、堀がとてもよく見えます。

こちら側は堀と土塁が複雑に巡り、曲輪と曲輪を隔てています。
印刷してきた図を見ながら歩きましたが、どこがどこだか?でした。
ただひとつ言える事は、堀好き土塁好きにはたまらない空間です

◆歴史◆
和賀一族・鬼柳氏の居城でした。
鬼柳氏は和賀一族で、惣領を輩出したこともある家柄です。
その起源は古く、鎌倉時代末頃まで遡ります。
築かれた時期は不明ですが、1500年頃と考えられています。
これは、三郭の発掘調査で書院造の御所が見つかったためです。
大番役で在京していた鬼柳義継が、1492年に伊賀守に補任されました。
和賀郡惣領職となった鬼柳義継が、京風の居館を築いたと考えられます。
1592年、廃城となりました。
1590年、奥州仕置きにより和賀義忠が改易されました。
この時に鬼柳氏も領地を没収され、南部家に仕官したようです。
1591年には和賀義忠・稗貫広忠が、旧領回復のため一揆を起こしました。
この時の鬼柳氏の動向が???です。
一揆鎮圧後、豊臣秀吉は和賀郡内の城の破却を命じました。
この時に鹿島館も対象となり、その代官を鬼柳源四郎が務めています。
鬼柳源四郎は「涙ながらに火を放った」と伝わります。
発掘調査では、二郭跡から焼け焦げた柱が多数出土したそうです。
以後の鬼柳氏は、南部家に仕えて家名を保っています。
ただ、1600年に和賀忠親が起こした岩崎一揆に鬼柳氏の名があります。
登場するのは鬼柳伊賀守と鬼柳清三郎です。
ググってもこの頃の鬼柳氏がよくわかりませんが・・・
色々調べて、たぶんこうだろうな?という推測です。
鬼柳伊賀守は鬼柳義邑、鬼柳清三郎はその嫡男・鬼柳義敦と思われます。
伊賀守の官職から、鬼柳義邑はたぶん合ってると思います。
鬼柳義敦は、家系図では三郎兵衛と付記されています。
そして、南部家に仕え鹿島館を焼いた源四郎はその弟・鬼柳義元かも。
鬼柳義邑と鬼柳義敦についてはどうなったかサッパリです。
たぶん主家筋の和賀忠親に従い、岩崎一揆で散ったものと思われます。
所在地:岩手県北上市鬼柳町満屋 GPSログダウンロードページ
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