2020/04/23
岩崎城/岩手県北上市
岩崎城は和賀一族・岩崎氏の居城で、岩崎一揆の舞台となった城です。訪問日は2017年5月4日です。

北西の交差点に案内があり、車で城跡まで行けます。
ここは上り坂のヘアピンカーブを曲がり切った所にある大手門跡です。
岩崎城の大手門、最近どこかで書いたような?w

大手門の内側には、枡形の標示と石碑があります。
石碑に岩崎城大手門跡と彫られています。

大手門の枡形虎口の両脇には、高さ3メートル程の土塁があります。
現在ココで見られる最大の土塁です


大手門跡から見た城内です。
手前の広場が三の丸、木立の向こう側が本丸です。
三の丸と本丸の間に普通なら二の丸があるハズですが・・・
二の丸は、ずっと左へ行った下の麓です。
城主様の普段住まいの居館は二の丸にあったそうです。

三の丸と本丸の間に橋が架かっており、その手前に説明板があります。
橋が架かっているということは・・・

堀切で仕切られています

かなり規模が大きそうですが、木々が茂っていてよく見えず

整備された城跡でも、堀ってだいたいこんな扱いですよね。

本丸側の堀沿いには、1メートル無いくらいの土塁があります。
往時はもっとずっと高かったと思います。

本丸内部の様子です。
三の丸でもかなり広かったのですが、本丸は倍以上ありそうです。

説明板全体を表示
岩崎城といえば、こんな模擬天守があったかと思いましたが見当たらず。
よくよく調べてみたら、平成20年(2008年)に壊されたのだとか。
(これは北西の入口の交差点にある説明板に載っている写真です)

その場所には現在、小さな木造建築物が1軒あるだけです。
軒先には「岩崎城址舞楽殿」と書かれた板がありました。

本丸外周には土塁が巡っていますが、建物の裏辺りが一番高かったです。
◆歴史◆
和賀氏初期の居城だった、かもしれません。
和賀義盛、義治、時義が居城としたと伝わります。
いつの時代か調べていたら、平安時代末から鎌倉時代初期でした。
和賀義治は、源頼朝と八重姫の子・千鶴の養父という伝承があります。
八重姫は、源頼朝を軟禁していた伊東氏の娘です。
2人の間に子が生まれると、伊東祐親は平家を恐れて赤子を殺害・・・
したはずが、乳母に連れられ南部家に逃れ、和賀家の嗣子となり継いだ。
・・・という感じです。
話半分ではありますが、岩崎城がこの頃の和賀氏の本拠だったようです。
1341年、須々孫氏と鬼柳氏が戦いました。
築城年代は不明ですが、歴史に登場するのが1341年です。
和賀一族は当初、南朝方として参戦していました。
しかし、1340年に鬼柳義綱が北朝方に寝返って須々孫行義を攻めました。
翌1341年、両者は岩崎楯で戦い、鬼柳清義が戦死しています。
詳細不詳ですが、初期の和賀氏の本拠は岩崎城だったっぽいです。
というのも、和賀氏の城で岩崎城が2番目に大きなお城だからです。
後の本拠は二子城(飛勢城)ですが、歴史に登場するのは1401年です。
和賀氏は複雑な氏族で、多田氏系、小田嶋氏系、苅田氏系があります。
どうもそれぞれ出自が異なり、領地の和賀郡から名乗ったようです。
須々孫氏は多田氏系、鬼柳氏は苅田氏系とされます。
惣領の和賀基義は鬼柳氏と同じ苅田氏系で、2代前に分岐しています。
次第に南朝方が劣勢となり、1352年に須々孫行義が降伏したようです。
翌年、須々孫氏の領地を和賀氏に分割した吉良貞家の安堵状が残っています。
尚、岩崎城主の岩崎氏も、系図ではこの頃に派生しています。
1590年、廃城となりました。
1590年、奥州仕置きにより、和賀義忠が改易されました。
この処置に反発した和賀義忠は、花巻の稗貫広忠とともに挙兵。
両者は実の兄弟または親子と考えられています。
和賀義忠は元居城の二子城を奪還しました。
稗貫広忠の居城・鳥谷ヶ崎城(後の花巻城)も落城寸前まで追い詰めました。
冬になり雪が降るようになったことで、鳥谷ヶ崎城からも兵が撤退。
結果として、鳥谷ヶ崎城も奪還に成功しました。
しかし、春になると豊臣方による攻勢が再開され、両城とも陥落しました。
和賀義忠は戦死、稗貫広忠も間もなく没したとされます。
和賀・稗貫両氏の旧領は、南部信直の領地となりました。
1600年、岩崎一揆の舞台となりました。
関ヶ原の戦の際にも和賀氏が同様の一揆を起こしました。
それが岩崎一揆です。
岩崎一揆を起こしたのは子の和賀忠親で、旧臣を集め蜂起しました。
関ヶ原の戦の時の東北地方では、上杉景勝が西軍でした。
会津米沢の大軍を相手に、東軍諸勢力は連携を欠きました。
伊達政宗は積極的には当たらず、様子見を決め込んでいました。
そのため、東軍の主力は南部氏になりそうでした。
ここで伊達政宗が和賀忠親に挙兵させ、南部軍を足止めしました。
そのため、上杉軍には最上軍がほぼ単独で対峙しました。
事態の長期化を目論み、あわよくばを狙ったのでしょうが・・・
関ヶ原であっさり決着がつき、伊達政宗も慌てて対上杉の兵を出しました。
和賀忠親は二子城を落とされ、岩崎城で最後の抵抗を続けました。
冬を越した3月に、南部軍の総攻撃を受け落城。
和賀忠親主従は城を脱出し、陸奥国国分尼寺で自害しました。
国分尼寺って、仙台にあるんですよね・・・w
証拠隠滅のためもあり、尋問を受ける前に自害したのかもしれません。
ただ、伊達政宗は100万石のお墨付きを反故にされました。
徳川家康にはバレバレだったんですね。
和賀忠親の子は、仙台藩に120石で仕えています。
修復され、南部家の城となりました。
一度は廃城になった岩崎城ですが、一揆鎮圧後に修復されました。
柏山明助が城代となり、旧和賀勢力や仙台藩に対する備えとされました。
柏山氏は元は葛西家臣でしたが、奥州仕置き後に南部家臣となりました。
その際、伊達政宗に命を狙われており、それ程優れた武将だったようです。
南部家に仕えると、北信愛などと並んで譜代家老並みの扱いを受けました。
岩崎城の廃城時期は不明です。
一国一城令の出た1615年か、柏山明助が暗殺された1624年頃と思われます。
所在地:岩手県北上市和賀町岩崎
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