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下煤孫館/岩手県北上市

下煤孫館は和賀一族である煤孫氏の居城でした。
訪問日は2017年5月4日です。

下煤孫館【1】

下煤孫館の跡地には、古館神社があります。
私はその参道の麓の駐車場に車を停め、歩いて登りました。

下煤孫館【2】

駐車場には下煤孫館の説明板があります。
肉眼では辛うじて説明板だとわかりましたが、真っ白で読めず・・・
左半分は立派な縄張図ですが、残念ながら載せられませんあせる
上須々孫館と違う表記なのは、こいつのタイトルが下煤孫館だからです。
私は、現地での表記を採用しています。

下煤孫館【3】

駐車場の端にもう1枚、公園の案内図があります。
タイトルが掲示板なのがちょっと?ですw

下煤孫館【4】
拡大表示

せっかくなので、拝借します。
図だと平面的ですが、真ん中の公園の所が一番高いです。
上から左へ回って入る車道がありますが・・・
私がこの図を見つけたのは下りてきた後です。
登る前に見つけていれば、車で上がっていましたあせる

下煤孫館【5】

そんな便利な道があるとも知らず、まっすぐな参道を登ります。
たいそう登るように書きましたが、2分で登れますw

下煤孫館【6】

上にはその名の通り、古館神社があります。

下煤孫館【7】

そして、下にあった通り展望公園もあります。
高台にある広い平坦地なので、城跡らしいといえばそう言えます。

下煤孫館【8】

しかし!
平坦地だ♪曲輪だ♪で帰ってはいけません。
参道の反対側に轍が続いています。
この時点で車で来れるんだ!と気付かなかった私ってあせるあせるあせる
その先の暗闇から「おいでおいで」と呼ぶ声が聞こえたらヤバイ奴ですw

下煤孫館【9】

平坦な曲輪からの出口です。
道の両脇が大きく窪んでいるのが見えます。
先程私を呼んでいた暗闇の正体は堀でした(*´▽`*)キコエテマセンヨ

下煤孫館【10】

幅も深さもかなり大規模なものです。
上須々孫館よりも後の時代とされる理由はこれでしょうか。
こちらも大地の端っこを堀で分断した構造のようです。

下煤孫館【11】

土橋から左の堀底を進んでみました。
突き当りは向こうの崖が見えています。

下煤孫館【12】

堀の端は、自然地形の谷でした。
これを人の力で掘ったとしたら、それはそれで凄いですが。

下煤孫館【13】

東から北へ回り込んで上がってくる道です。
この道は、堀の外側にありますが、ここも堀跡っぽい感じがします。
もしそうなら、大地を二重堀で分断していたことになります。


◆歴史◆

須々孫氏の城でした。

築かれた時期や築いた人物等は不明です。
須々孫氏・煤孫氏に関連する城館なので、ほぼ上須々孫館と同じです。
ただ、下煤孫館を紹介する諸兄は、和賀行義の名前を挙げています。
須々孫氏は西和賀殿と呼ばれており、須々孫行義の名も登場します。
須々孫行義は南北朝時代の人物で、南朝方に属していました。
1334年の旧鎌倉幕府勢との戦功で、下煤孫の他に多くの領地を得ています。

1352年、和賀行義の領地が没収されました。

須々孫行義(和賀行義)は南朝方に属したものの、次第に劣勢となります。
そんな中、1340年に同族の鬼柳義綱、さらに和賀基義も北朝方となります。
同じ和賀姓ですが、和賀行義は多田氏系、和賀基義は苅田氏系とされます。
争っていたのは、元から赤の他人だったからのようです。
須々孫氏は鬼柳義綱に攻められますが撃退し、岩崎城での戦で破っています。
しかし、最終的に須々孫行義は降伏したようです。
1352年11月、その領地が和賀一族に分割されています。
没収された領地は、須々孫氏の領地の8割に及んでいます。

1435年、和賀の大乱を起こしました。

須々孫義躬または子の須々孫義村が、和賀義篤と対立しました。
南部義政が仲介したものの、黒沢尻氏・稗貫氏が参戦し開戦します。
須々孫・黒沢尻・稗貫連合軍vs和賀氏の対立構造ですが・・・
南部義政は和賀義篤に味方し、3万の援軍を送りました。
好機と見た葛西氏や大崎氏も参戦し、翌年まで続く大戦となりました。
戦後、須々孫氏は多くの領地を失います。
さらに、2代後からは姓の表記が「煤孫」に変わります。
これは、須々孫氏が和賀氏に乗っ取られたためと考えられています。

1590年、廃城になったと考えられます。

1590年、奥州仕置きにより主家の和賀義忠が改易されました。
そのため、家臣だった煤孫氏も領地を失っています。
和賀義忠はこれを不服とし、稗貫氏とともに挙兵しました。
和賀・稗貫一揆では一度は両家とも旧領を占拠しましたが・・・
冬を越した翌春、本格的に討伐され討ち果たされました。
和賀義忠は敗戦後、逃亡中に襲われ落命しました。
煤孫氏は和賀氏に従っていたようで、1600年の岩崎一揆に名が現れます。
関ヶ原の戦の時、和賀忠親が旧領回復を目論み挙兵しました。
この戦いで和賀忠親は岩崎城に籠り、煤孫下野守が大手門を守っています。
岩崎一揆はその後、伊達政宗により鎮圧されています。
和賀忠親は自害し、煤孫下野守の消息は不明となります。。


所在地:岩手県北上市和賀町煤孫古館(古館神社)

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コメント

無題

画像検索で煤孫の検索で見付けてコメント致します。

有難うございます!。

子供の頃は何故こんなに坂っ平が多いのか分からなかったが、数年前にお城が有った影響で坂っ平が多いのだと知りました。

古舘神社は、私の実家より、徒歩三分位の近さ。(神社境内まで)道路挟み直ぐなんで。

10数年前に何故か案内板が設置され、後に展望台迄出来たのでした。

子供の頃は、地元民しか知らない裏道を良く通り、坂方面迄抜けてましたが、今は荒れ果てて居るので裏道を通るのは困難かと思われますが、実家に帰ってませんので今どうなってるかな?。

あぁ懐かしい!。
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なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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