2020/04/20
上須々孫館/岩手県北上市
上須々孫館は上煤孫館とも表記され、東西2箇所にあります。訪問日は2017年5月4日です。

まずは西館から見て来ました。
こちらは山を登る道から見ることが出来ます。
その北端に説明板があります。

この説明板は経塚についてのもので、上須々孫館以前からのものです。
経塚は、出土した壺から12世紀後半に築かれたことがわかっています。
上須々孫館がそれより後の年代に築かれたことも記されています。

車道はまっすぐ伸びています。
この右側の高い方が館跡の主要部です。

そのまま道を登ると、道端に土が高くなっている所があります。
これが上須々孫館の土塁です。

土塁の裏側には、かなり大きな堀がありました。
道の下側(北側)から見て手前に土塁で上側(南側)が堀です。
なので、北側の方が重要度が高かったことがわかります。

道は遺構を無視してまっすぐ造られています。

そのため、道の反対側にも土塁と堀が続いています。
堀は2本あるらしいのですが、私は1本しかわかりませんでした

南北2つの曲輪があるそうなので、南側の曲輪の南端にもある筈です。

続いてもう1つの上須々孫館である東館も見て来ました。
地図ではすぐ東側ですが、車では南側からかなり回り込みます。
入口は高速道路沿いの畦道です。

畦道を進むと、高速道路を渡る橋があります。
この橋を渡り、突き当りまで車で行けます。

東館はその突き当りの先ですが、こんな感じです。
チョット入って行きづらい雰囲気です




突き当りから畦道を西へ進むと、館跡方向へ溝があります。
この溝沿いは下草が薄く、藪が苦手な私でも入って行けました。

溝に沿って奥へ進んだら、斜面が大きく凹んでいる所に辿り着きました。
これが東館を台地から隔てる堀です。

ここから東側に向かって堀が伸びています。

土塁は堀の奥側にあります。
木々が茂っていて見づらいですが、左側が東館の土塁です。
高さは1メートルちょっとあります。

堀底をズンズン進むと、途中で直角に右に曲がりました。
この先ですぐに左へ直角に折れていますが・・・
ここから堀底も木々の密度が高くなり、容易に進めなくなります。
堀はまだまだ続いていますが、私はここで引き返しました。
◆歴史◆
築城時期は不明です。
鎌倉時代初期に和賀義行の三男が須々孫野馬の地を与えられました。
この時に須々孫姓を名乗るようになります。
須々孫氏は和賀家中で重きを為しますが、次第に対立するようになります。
尚、居城がいつ築かれたのかは不明です。
上須々孫館の西館が最初で、東館→下煤孫館へ移ったと考えられています。
1340年、本家の和賀氏と戦いました。
南北朝時代、和賀氏は南朝方として活動し、須々孫氏も従いました。
しかし、本家の和賀氏や同族の鬼柳氏が北朝方に寝返りました。
南北両派に分かれた一族どうしで争い、須々孫氏は和賀氏に攻められます。
当時の状況は、当初優勢だった南朝方が劣勢になり始めた時期でした。
1352年に須々孫氏は屈し、領地の8割を没収され和賀氏に従います。
1435年、和賀の大乱を起こしました。
須々孫義躬または子の須々孫義村が、惣領の和賀義篤と対立しました。
南部義政が仲介したものの、黒沢尻氏・稗貫氏が参戦し開戦します。
須々孫・黒沢尻・稗貫連合軍vs和賀氏の対立構造ですが・・・
南部義政は和賀義篤に味方し、3万の援軍を送りました。
好機と見た葛西氏や大崎氏も参戦し、翌年まで続く大戦となりました。
戦後、須々孫氏は多くの領地を失います。
さらに、2代後からは姓の表記が「煤孫」に変わります。
これは、嫡流が家督継承を認められなかったためと考えられています。
1590年、廃城になったと考えられます。
上述の通り、既に下煤孫館に移っていたかもしれませんが・・・
本拠を移しても使われ続けていたかもしれません。
1590年、奥州仕置きにより主家の和賀義忠が改易されました。
そのため、家臣だった煤孫氏も領地を失っています。
和賀義忠はこれを不服とし、稗貫氏とともに挙兵しました。
和賀・稗貫一揆では一度は両家とも旧領を占拠しましたが・・・
冬を越した翌春、本格的に討伐され討ち果たされました。
和賀義忠は敗戦後、逃亡中に襲われ落命しました。
煤孫氏は和賀氏に従っていたようで、1600年の岩崎一揆に名が現れます。
関ヶ原の戦の時、和賀忠親が旧領回復を目論み挙兵しました。
この戦いで和賀忠親は岩崎城に籠り、煤孫下野守が大手門を守っています。
岩崎一揆はその後、伊達政宗により鎮圧されています。
和賀忠親は自害し、煤孫下野守の消息は不明となります。
所在地:岩手県北上市和賀町孫煤本郷 GPSログダウンロードページ
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