2020/04/16
大林城/岩手県金ケ崎町
大林城は胆沢郡の大族・柏山氏の居城でした。訪問日は2017年5月4日です。

城跡への入口は、道端にあり目立ちます。
こんな立派な説明板があれば、城キチならずとも立ち止まるハズです。

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説明板に載っている図です。
ココは北虎口跡で、城域の範囲や位置関係がわかりやすく示されています。
私が見てきたのは柏山館と松本館のみですが、それでもかなり広いです。
赤点線が「主要部」なので、実際はもっと広かったという事になります。

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それと、要所要所にこのような案内図が設置されています。
全部で28箇所あり、今どこに居るのかわかるようになっています


一番上の写真のココが北虎口跡です。
ここでもすでに、曲輪の段差がハッキリわかります。
見渡す限り「城内」ですが、私はここから右前方へ進みました。

北虎口跡から、一気に上がる道が続きます。
堀底っぽくてイイですね

奥に見えるのは、3番の案内図です。

坂を上がり左へカーブした所に、かなり広い平坦地があります。
ここが大林城の主要部中の主要部だったとされる柏山館です。
普通の城跡なら「主郭」と表現する所です。

進行方向左側が曲輪で、右側が切岸の斜面となっています。
案内の矢印等はありませんが、番号の図に従い奥へ。
すると、右奥に道っぽい空間が見えます。

すると、突き当りは高低差のある断崖になっています。
しかし、この断崖の真下が凹んでいるような・・・


順路断崖に沿って進み、そして下りていきます。
下りた所から見た断崖は、かなり大きな堀でした


順路は堀の反対側に沿って続きます。
奥の高い方が、主郭の柏山館です。

下の地図でボコッと凹んでいるのがこの堀です。

南西端部分の⑥から⑰では、いい状態の堀をみることが出来ます。

場所によっては、堀底へ下りて行けるようになっています。
主郭の切岸の下には、かなり大きな堀が巡っていました。

主郭から堀を隔てた所にある曲輪が生城寺(しょうじょうじ)館です。
直角に曲がった曲輪で、主郭の南東にあります。

ここにある説明板は生城寺館についてのものです。
城内では三の丸とされ、柏山氏の信仰する駒形神社があったそうです。
生城寺境内でもあり、奥の石碑には「雨安道県信士」と刻まれています。
ググっても出てきませんが、信士なので地位の高い人だったようです。

生城寺館周辺でも、堀が見られます。

生城寺館を奥へ進むと、細い尾根状の下り坂となっています。
そのまま下りて振り返った光景です。
虎口がありそうな場所だと思いますが、どうでしょうか?

生城寺館の下には、かなり広大な平坦面が広がっています。
案内図では主要部の破線で囲まれた、内城東外郭という曲輪です。
見た目は曲輪に見えませんが、往時は建物が並んでいたのでしょうか。
堀で囲まれ、ちゃんと出入口に虎口があったようです。

内城東外郭から見上げた柏山館です。
上からは見ていませんでしたが、3段になっているのがわかります。
城塁の上に柵を巡らせ、白い幟が風に靡く様子が目に浮かびます。
・・・実物は見たことありませんが


順路は城の外側に向かう案内図22番の所です。
段差を通る道が東虎口跡です。
スロープになっていますが、往時はどうだったのでしょうか?

内城東外郭のすぐ外側には、県南青少年の家があります。
城跡の平坦地なのに、このような施設がココだけです。
あとは大半が畑となっており、城跡の保存状態がいいです。

青少年の家沿いの道と表の道との交差点脇には、土塁が残っています。
そういえば土塁、ココの城跡ではここでしか見ませんでした。

北虎口跡の前の道です。
堀切があった訳ではなく、まっすぐ切り通しちゃった感じです。
道の反対側が松本館で、上がっていく緩い坂道があります。

坂道からは、柏山館の断面が見えます。
電柱のある凹んだ所が大きな堀です。
あちら側で見た堀は、横から見たらこんなに大きかったんですね!

坂道を上がった所です。
こうやって見ると整地され、原形を留めていないようですが・・・

そうでもなさそうな感じです。
坂道を上がった所から右へ入っていく道は、どうやら堀跡のようです。

左側の高い所へ入っていく出入口です。
近世に造られたなら真っすぐ入りますよね?
クッと曲がりながら入るこの感じは、戦国時代の虎口です

もちろん曲輪の内側も見ましたが、ただの平らな杉林です。

堀跡の道をさらに奥へと進んでみました。
こんな感じで荒れていますが、普段の山城と比べれば通りやすいです。

奥には稲荷神社がありました。
妙見様ではないんですねw

奥の方は堀や土塁は見られず、うやむやなまま田んぼに出ます。
この田んぼがもしかしたら堀跡なのかもしれません。
◆歴史◆
柏山氏の居城でした。
築城時期は不明ですが、鎌倉時代にはすでにあったようです。
一説には千葉一族・百岡氏の居城・百岡城であったとされます。
その説では後に葛西家重臣の柏山氏が百岡氏を併呑。
勢力を拡大すると一族が集まり、葛西家中で大勢力を為したとされます。
その柏山氏も出自は不詳で、葛西一族説、安部家臣説など色々あります。
ただ共通するのは、鎌倉時代初期には胆沢郡に居たことです。
葛西家で重臣を務めつつ、半独立的な勢力を保ちます。
戦国時代に内紛がありました。
1580年頃、柏山家で嫡男・柏山明国と弟3人が対立しました。
柏山明国は葛西家から正室を迎えていましたが、狂暴だったとされます。
弟側が優位となり、柏山明国は追放されました。
こうして次男・柏山明宗が後継者の地位を確立します。
尚、父親の柏山明吉は健在だったようですが・・・
弟達の争いは、葛西家との対立に起因するという説があります。
当時の葛西家は主家ではあるものの、かなり勢力が衰えていました。
筋を通そうとすれば弱い主家を立て、時流では伊達家が優勢・・・
葛西氏は柏山家臣に直接恩賞を与えており、関係が悪かったようです。
そんな中で起きたのが、1588年の三田義広父子の謀反です。
この争いが原因で、柏山家は家中最大の実力者を失うこととなります。
1590年、廃城となりました。
奥州仕置きにより、葛西家に従っていた柏山氏も領地を失いました。
柏山明吉はこれに抵抗したため、仕置き軍の浅野長政に攻められました。
大林城はこの戦で落城し、柏山明吉は戦死したとされます。
柏山明宗の去就は不詳ですが、同時期に没したと考えられています。
その後の柏山氏
領地を失った柏山明宗の子・柏山明助は、南部家臣となっています。
柏山明助はとても優秀だったようで、伊達政宗が暗殺を試みた程でした。
この暗殺未遂は、刺客が柏山明助に惚れ込んで失敗したとされます。
また、暗殺を命じられた領民が、逆に暗殺計画をバラしたともされます。
伊達政宗はこれらから、柏山明助が善政を敷いていたのだと感心したそうです。
南部家に仕えた柏山明助は、1000石で岩崎城代となります。
後には北信愛らと並び、譜代の重臣として扱われることになりますが・・・
その実力を恐れた主君により、1624年に暗殺されてしまいます。
所在地:岩手県胆沢郡金ケ崎町永栄字西柏山
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