fc2ブログ

大林城/岩手県金ケ崎町

大林城は胆沢郡の大族・柏山氏の居城でした。
訪問日は2017年5月4日です。

大林城【1】

城跡への入口は、道端にあり目立ちます。
こんな立派な説明板があれば、城キチならずとも立ち止まるハズです。

大林城【2】
拡大表示

説明板に載っている図です。
ココは北虎口跡で、城域の範囲や位置関係がわかりやすく示されています。
私が見てきたのは柏山館と松本館のみですが、それでもかなり広いです。
赤点線が「主要部」なので、実際はもっと広かったという事になります。

大林城【3】
拡大表示

それと、要所要所にこのような案内図が設置されています。
全部で28箇所あり、今どこに居るのかわかるようになっています合格

大林城【4】

一番上の写真のココが北虎口跡です。
ここでもすでに、曲輪の段差がハッキリわかります。
見渡す限り「城内」ですが、私はここから右前方へ進みました。

大林城【5】

北虎口跡から、一気に上がる道が続きます。
堀底っぽくてイイですねラブラブ
奥に見えるのは、3番の案内図です。

大林城【6】

坂を上がり左へカーブした所に、かなり広い平坦地があります。
ここが大林城の主要部中の主要部だったとされる柏山館です。
普通の城跡なら「主郭」と表現する所です。

大林城【7】

進行方向左側が曲輪で、右側が切岸の斜面となっています。
案内の矢印等はありませんが、番号の図に従い奥へ。
すると、右奥に道っぽい空間が見えます。

大林城【8】

すると、突き当りは高低差のある断崖になっています。
しかし、この断崖の真下が凹んでいるような・・・ラブラブ

大林城【9】

順路断崖に沿って進み、そして下りていきます。
下りた所から見た断崖は、かなり大きな堀でした恋の矢

大林城【10】

順路は堀の反対側に沿って続きます。
奥の高い方が、主郭の柏山館です。

大林城【11】

下の地図でボコッと凹んでいるのがこの堀です。

大林城【13】

南西端部分の⑥から⑰では、いい状態の堀をみることが出来ます。

大林城【14】

場所によっては、堀底へ下りて行けるようになっています。
主郭の切岸の下には、かなり大きな堀が巡っていました。

大林城【15】

主郭から堀を隔てた所にある曲輪が生城寺(しょうじょうじ)館です。
直角に曲がった曲輪で、主郭の南東にあります。

大林城【16】

ここにある説明板は生城寺館についてのものです。
城内では三の丸とされ、柏山氏の信仰する駒形神社があったそうです。
生城寺境内でもあり、奥の石碑には「雨安道県信士」と刻まれています。
ググっても出てきませんが、信士なので地位の高い人だったようです。

大林城【17】

生城寺館周辺でも、堀が見られます。

大林城【18】

生城寺館を奥へ進むと、細い尾根状の下り坂となっています。
そのまま下りて振り返った光景です。
虎口がありそうな場所だと思いますが、どうでしょうか?

大林城【19】

生城寺館の下には、かなり広大な平坦面が広がっています。
案内図では主要部の破線で囲まれた、内城東外郭という曲輪です。
見た目は曲輪に見えませんが、往時は建物が並んでいたのでしょうか。
堀で囲まれ、ちゃんと出入口に虎口があったようです。

大林城【20】

内城東外郭から見上げた柏山館です。
上からは見ていませんでしたが、3段になっているのがわかります。
城塁の上に柵を巡らせ、白い幟が風に靡く様子が目に浮かびます。
・・・実物は見たことありませんがあせる

大林城【21】

順路は城の外側に向かう案内図22番の所です。
段差を通る道が東虎口跡です。
スロープになっていますが、往時はどうだったのでしょうか?

大林城【22】

内城東外郭のすぐ外側には、県南青少年の家があります。
城跡の平坦地なのに、このような施設がココだけです。
あとは大半が畑となっており、城跡の保存状態がいいです。

大林城【23】

青少年の家沿いの道と表の道との交差点脇には、土塁が残っています。
そういえば土塁、ココの城跡ではここでしか見ませんでした。

大林城【24】

北虎口跡の前の道です。
堀切があった訳ではなく、まっすぐ切り通しちゃった感じです。
道の反対側が松本館で、上がっていく緩い坂道があります。

大林城【25】

坂道からは、柏山館の断面が見えます。
電柱のある凹んだ所が大きな堀です。
あちら側で見た堀は、横から見たらこんなに大きかったんですね!

大林城【26】

坂道を上がった所です。
こうやって見ると整地され、原形を留めていないようですが・・・

大林城【27】

そうでもなさそうな感じです。
坂道を上がった所から右へ入っていく道は、どうやら堀跡のようです。

大林城【28】

左側の高い所へ入っていく出入口です。
近世に造られたなら真っすぐ入りますよね?
クッと曲がりながら入るこの感じは、戦国時代の虎口ですラブラブ
もちろん曲輪の内側も見ましたが、ただの平らな杉林です。

大林城【29】

堀跡の道をさらに奥へと進んでみました。
こんな感じで荒れていますが、普段の山城と比べれば通りやすいです。

大林城【30】

奥には稲荷神社がありました。
妙見様ではないんですねw

大林城【31】

奥の方は堀や土塁は見られず、うやむやなまま田んぼに出ます。
この田んぼがもしかしたら堀跡なのかもしれません。


◆歴史◆

柏山氏の居城でした。

築城時期は不明ですが、鎌倉時代にはすでにあったようです。
一説には千葉一族・百岡氏の居城・百岡城であったとされます。
その説では後に葛西家重臣の柏山氏が百岡氏を併呑。
勢力を拡大すると一族が集まり、葛西家中で大勢力を為したとされます。
その柏山氏も出自は不詳で、葛西一族説、安部家臣説など色々あります。
ただ共通するのは、鎌倉時代初期には胆沢郡に居たことです。
葛西家で重臣を務めつつ、半独立的な勢力を保ちます。

戦国時代に内紛がありました。

1580年頃、柏山家で嫡男・柏山明国と弟3人が対立しました。
柏山明国は葛西家から正室を迎えていましたが、狂暴だったとされます。
弟側が優位となり、柏山明国は追放されました。
こうして次男・柏山明宗が後継者の地位を確立します。
尚、父親の柏山明吉は健在だったようですが・・・
弟達の争いは、葛西家との対立に起因するという説があります。
当時の葛西家は主家ではあるものの、かなり勢力が衰えていました。
筋を通そうとすれば弱い主家を立て、時流では伊達家が優勢・・・
葛西氏は柏山家臣に直接恩賞を与えており、関係が悪かったようです。
そんな中で起きたのが、1588年の三田義広父子の謀反です。
この争いが原因で、柏山家は家中最大の実力者を失うこととなります。

1590年、廃城となりました。

奥州仕置きにより、葛西家に従っていた柏山氏も領地を失いました。
柏山明吉はこれに抵抗したため、仕置き軍の浅野長政に攻められました。
大林城はこの戦で落城し、柏山明吉は戦死したとされます。
柏山明宗の去就は不詳ですが、同時期に没したと考えられています。

その後の柏山氏

領地を失った柏山明宗の子・柏山明助は、南部家臣となっています。
柏山明助はとても優秀だったようで、伊達政宗が暗殺を試みた程でした。
この暗殺未遂は、刺客が柏山明助に惚れ込んで失敗したとされます。
また、暗殺を命じられた領民が、逆に暗殺計画をバラしたともされます。
伊達政宗はこれらから、柏山明助が善政を敷いていたのだと感心したそうです。
南部家に仕えた柏山明助は、1000石で岩崎城代となります。
後には北信愛らと並び、譜代の重臣として扱われることになりますが・・・
その実力を恐れた主君により、1624年に暗殺されてしまいます。


所在地:岩手県胆沢郡金ケ崎町永栄字西柏山

岩手県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR