2020/04/15
胆沢城/岩手県奥州市
胆沢城は、蝦夷討伐の拠点である鎮守府だった所です。訪問日は2017年8月7日です。

歴史的にとても重要な場所で、国の史跡にも指定されています。
史跡内を突っ切る道には、こんなに目立つ標識があります。

停めようと思えばどこでも停められそうですが・・・
な~んて言ったら怒られますね

私は、すぐ近くにあるココに車を停めて散策して来ました。

「国の史跡」というので、派手なものを思い浮かべそうですが・・・
まぁ、こんなもんです。
だいぶ土地を買い上げたようですが、まだまだ田畑や民家があります。

一部では、こんな感じで何かの工事をしていました。
雰囲気的にはコンクリートで覆うような感じはしませんでした。
史跡公園的なものを整備しているっぽい感じです。

下の地図で私がマーカーを付けた道端に、胆沢城の城址碑があります。
城跡的な何かを求めると、ココがそれ!です。

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城址碑の背後には、胆沢城の配置が重ねて描かれた図があります。
どこが何だったのか、現在の地図から探せるスグレモノです


さらには復元図も。
ガッツリ古代政庁ですw
基本的にどこでも同じスタイルですね。

草むらのあちこちに白いお札があり、どこが何だったか示されています。
上の赤い建物があったのがココです(`・ω・´)

せっかくなので、周囲の様子も。
まぁ、草むらです



あの時の工事してたので、今どうなってるかは?ですが。

絵で見ると一軒家っぽく見えますが、冷静に考えると政庁ですよね?
しかも、往時は数百人が駐屯していたというのでかなり大きいかも。
奈良の大仏殿みたいな大きさだったのかもしれません。
◆歴史◆
802年に築かれました。
史料の初見は『日本紀略』です。
802年、胆沢城築城のため坂上田村麻呂が派遣された事が記されています。
1月に陸奥に入り、胆沢城が完成する前の4月に阿弖流為が降伏しました。
翌年、鎮守府をさらに北へ移すため、志波城の築城が始まりました。
志波城は度々水害に見舞われ、812年に鎮守府は徳丹城に移されました。
徳丹城は規模が小さかったため、胆沢城の重要度が増したとされます。
後三年の役頃まで存続したと考えられています。
1083年、清原家の内紛である後三年の役が始まりました。
前九年の役の際は、源頼義が鎮守府将軍でした。
安部氏滅亡後は、清原武則が鎮守府将軍に任命されていました。
以後、清原家当主が代々任命され、清原真衡まで続いたと考えられています。
清原真衡の代に、養子に家督を継がせようとしたことで内紛が発生。
弟2人との戦いを優位に進めていた最中の1083年、病で急死しました。
鎮守府将軍は、この争いに介入した源義家が任命されました。
ただ、源義家が胆沢城を拠点としたかどうかが?です

後三年の役は私闘であったとして、1088年に鎮守府将軍を罷免。
源義家が去った後、奥州の主となった藤原清衡は平泉を拠点としました。
そのため、遅ければ後三年の役頃までは存続したものと考えられています。
所在地:岩手県奥州市水沢区佐倉河渋田・四月
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コメント
無題
センターで購入した蕨手刀のペーパーナイフは重宝しています。
2020/04/15 07:39 by 植木屋 URL 編集