2020/03/31
岩谷堂城/岩手県奥州市
岩谷堂城は、藤原経清の砦があったと伝わる城跡です。訪問日は2017年8月7日です。

城跡は現在、館山史跡公園として整備されています。
麓には駐車場があり、城館をイメージした休憩所もあります。

まずは案内に従って公園を一周してみました。
入口に立派な石碑と、公園の案内図があります。

拡大表示
公園の案内図なのですが、曲輪の形が割とはっきり残っています。
右側の大きな曲輪が主郭、左側の小さな曲輪が中ノ郭です。
城域はさらに広く、南西のグラウンドが二郭でした。

公園にはなっていますが、堀や土塁はかなりいい状態で残っています。
園路は堀や土塁に沿っており、普通に散策しながら遺構を楽しめます。

そして、所々に説明板もあります


この公園を整備した方は、きっと城跡に造詣のある方ですね


一番高い所で土塁に囲まれているのが、館山八幡神社です。
妙見神社ではなく八幡神社なんですねーw

主郭の周りは、土塁の外に帯曲輪が巡っています。

おそらく、神社は公園になる前からあったんでしょうね。
参道なので、構造物無視で一直線に麓へ伸びています。

下りに下って一番下の所でも、土塁が見られます。

参道から道に出た所には「藤原氏御館跡」の石碑があります。
この「藤原氏」は、藤原経清サマ


主郭と中ノ郭の間には、見事な堀跡が残っています。
薬研堀だったのか、箱堀だったのか・・・
どちらでもよくなる位に見事な堀です


きれいに整備されているので、真夏でも堀底を歩けます


中ノ郭内部です。
図では小さく見えますが、実際はかなり広いです。

ここは中ノ郭なのですが、二の丸の説明板があります。
二の丸は現在は高校のグラウンドになっている所です。
江戸時代には主郭や中ノ郭は使われず、二の丸がメインだったそうです。

拡大表示
その図がこちらです。
建物がビッシリひしめいています。
ここまで詰めるなら、中ノ郭も使えば良かったのにw
◆歴史◆
藤原経清の砦があったと伝わります。
城砦としての歴史は不詳ですが、藤原経清の砦があったと伝わります。
藤原経清は安部頼時の娘婿で、前九年の役で源氏により処刑されました。
藤原経清とその子・藤原清衡の居館は、2km南にあった豊田館でした。
江刺氏の居城となります。
奥州藤原家滅亡後、葛西5郡が葛西清重に与えられました。
その中から江刺郡が千葉胤道に与えられ、ここに城を築いたとされます。
千葉胤道は江刺姓を名乗るようになります。
江刺家には葛西宗家から養子を迎え、重臣として重きをなします。
ただし、葛西宗家との争いも絶えませんでした。
江刺隆見は1483年から1505年までの間に4度、葛西宗家と戦っています。
これは葛西家で内紛が続き、北の南部家の圧力があったためと思われます。
江刺隆見を破った葛西政信は、自分の孫に江刺家を継がせました。
以後も葛西領北辺にあり、南部家の脅威に晒され続けます。
そして1590年、奥州仕置きによって主家・葛西家とともに改易されました。
木村吉清家臣・溝口外記が城代となりました。
豊臣家臣・木村吉清・清久父子が、大崎・葛西旧領30万石を与えられました。
しかし、1591年に葛西大崎一揆が起こり、溝口外記は討死しました。
この一揆の責任を問われ、木村父子は領地を没収されます。
1591年、伊達家の城となります。
木村父子失脚後、伊達政宗の城となりました。
岩谷堂城は、桑折摂津守をはじめ伊達家臣が交代で配置されました。
1659年には伊達宗規が岩谷堂の領主となります。
伊達宗規は仙台藩2代藩主・伊達忠宗の七男です。
跡継ぎの無かった伊達国隆の養子となります。
伊達国隆は伊達姓ではありますが、岩城氏の嫡流だったりします。
その辺の事情はここでは触れませんが、佐竹氏に乗っ取られたためです。
仙台藩3代藩主となった実兄により、岩谷堂3000石を与えられます。
以後は岩谷堂伊達家が明治時代まで続きました。
所在地:岩手県奥州市江刺区館下 GPSログダウンロードページ
岩手県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント