2020/03/30
水沢城/岩手県奥州市
水沢城は留守家の子孫・水沢伊達家の江戸時代の居城でした。訪問日は2017年8月7日です。
バタバタしていて、更新が滞っていますm(__)m

城跡は現在、奥州市役所があります。
2市2町1村が合併して出来た市の中心部となっています。
今も昔も、この辺りでは中心的な場所だったんですね


この庁舎の一角に、冠木門があります。
かな~シンプルですが、実はこれ、復元でもオブジェでもなく本物です

正式な名前は「黒門」で、腐食防止のため黒く塗られた事に由来します。

せっかくなので、誰も紹介していない裏側も載せます。
屋根は無さそうですが、両サイドに塀があったかもしれません。

近くには姥杉の説明板があります。
文字がいっぱい書かれているのでザックリ紹介すると・・・
土塁に植えられていた杉や松の生き残りの1本だ、という事でした。
ガッツリ市街地になっても、ちょこちょこと残ってるんですね


他にも、縄張図の描かれた説明板もあります。
だいぶうっすらとしています。

拡大表示
せっかくなので、図だけパクリます。
現地では設置位置の都合で、西が上に描かれています。
あと、超薄っすかったので、濃くなるよう加工しています。
現状は完全に市街地ですが、地図を見ると何となく!!!デス^^
◆歴史◆
築城時期は不明です。
伝承では、源義頼が1057年に築いたとされています。
別の伝承では、葛西家臣の蜂谷氏による築城説もあります。
始まりはわかっていませんが、葛西氏による胆沢支配の拠点でした。
1400年には若狭を出奔した佐々木繁綱が居城とした、とする説もあります。
少しだけ触れると、安芸守護・武田家が若狭国の守護も兼任。
その家督争いに敗れた武田信広が、佐々木繁綱ら数名とともに出奔。
暫く古河公方を頼り、南部家領の奥州へ移った、という感じです。
武田信広はさらに蝦夷地へ移り、蠣崎家を継いだとされます。
詐称なんて説もあり、定かではありませんが・・・

1590年、木村吉清家臣・松田源太郎左衛門が配置されました。
豊臣秀吉の奥州仕置きにより、陸奥では多くの大名が改易されました。
葛西家と大崎家の領地は、豊臣家臣・木村吉清・清久父子に与えられました。
この時、その家臣・マツダ源太郎座衛門が水沢に配置されましたが・・・
その期間が短か過ぎたせいか、どんな人物なのかが???です

1591年、伊達家臣・白石宗実が城主となります。
一揆を木村父子の責任にし、その一揆を鎮める事で領地を得る。
そんな伊達政宗の思惑により、葛西大崎一揆が起きたとされます。
伊達政宗は思惑通り、葛西家と大崎家の旧領を手に入れました。
しかし、先祖代々の主な領地と会津を没収されましたが・・・
水沢には、伊達政宗の側近・白石宗実が入りました。
1601年、白石宗直が登米郡へ移されました。
関ヶ原の戦の際、陸奥では南部家臣・和賀忠親が岩崎一揆を起こしました。
これにより、南部軍は上杉軍どころではなくなりました。
伊達政宗はこれを口実に様子見を決め込んで兵力を温存。
あわよくばなんて魂胆も、徳川家康にバレてしまいました。
この岩崎一揆は白石宗直が主導したという事で、領地を没収されました。
その後は仙台藩直轄となり、柴田氏、石母田氏が代官を務めました。
1629年、伊達宗利が城主となります。
伊達宗利は留守政景の子です。
留守政景は伊達輝宗の実弟で、留守家を継いでいました。
奥州仕置きで領地を失い、伊達政宗の家臣となります。
1593年に伊達姓の名乗りを許され、正式に伊達一門扱いとなります。
関ヶ原の戦では、上杉軍との長谷堂城の戦で活躍。
一関2万石を与えられていました。
1607年に留守政景は没し、子の伊達宗利が継承。
その後、金ケ崎を経て水沢城主となりました。
一国一城令後は水沢要害でしたが・・・
以後、明治に至るまで水沢伊達家の居城となります。
所在地:岩手県奥州市水沢区大手町1丁目
岩手県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント