2020/03/26
前沢城/岩手県奥州市
前沢城跡は現在、お物見公園となっています。訪問日は2017年8月7日です。

前沢城は、舌状台地の先端部にありました。
その付け根の所に駐車場があります。
駐車場から公園(=城跡

何となく、虎口っぽさが感じられます。

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ここに公園の案内図があります。
お城の縄張りが感じられればと思いましたが、ほぼ桜の分布図です


公園内部はこんな感じです。
まぁ、期待はしていませんでしたが、それ以上ですw

早速ですが、石碑が現れました。
真ん中でポッキリ割れているのは、地震のせいでしょうか・・・

来ちゃったのだから、せめて一周しようと外周を歩いてみました。
公園の端っこに舗装された歩道が巡っています。
でも、何だか、城キチの心を揺り動かすこの感じは・・・

土塁ですね

ガッツリ公園で、初めて具体的な城跡らしさを感じられました。

奥の方には、ちゃんと城址碑もあります。
先ほどの折れた石碑の正体は、今の所?です。

公園は反時計周りに回りました。
だいぶ戻って来た所に、横への出入口があります。
ここもちょっと何かが引っ掛かります。

外側から見た先ほどの出入口です。
これ、堀切ですね



これだけガッツリした公園で、堀切が見られるとは思いませんでした。

さらに、駐車場脇の出入口にも堀切が。
一番最初の写真の左奥が、実はここでした。
最初は遺構が見られるとは思っておらず、気が付いていませんでした

・・・最後に
地図を見ていたら、南東に「移築大手門」の文字が見えました。
ストビューで見ると、立派な門があります。
これから訪ねる方は、ぜひこちらもお見逃しなく

◆歴史◆
柏山家の重臣・三田氏の居城でした。
築城時期は不明ですが、三田氏が居城としていました。
三田氏は、柏山氏に従って1189年の奥州合戦後の当地に来たとされます。
柏山氏は独立勢力ですが、葛西氏と行動を共にする事がよくありました。
天文の乱の際は葛西高信とともに伊達晴宗派でした。
乱終結後、三田重明は葛西高信から直接感状が与えられています。
しかし、これは葛西家による柏山家臣の切り崩し策だったともされます。
それでも三田氏は、柏山家への忠節を守り続けています。
1588年、三田義広・義勝父子が自害しました。
三田義広の子が大崎家に仕官するという噂が立ちました。
三田義広は智勇に優れ、柏山家中で重きを為していました。
そのため、事態を重く見た柏山明宗が三田氏討伐に動きました。
しかし、永徳寺と正法寺の僧が柏山明宗を諫め、考えを改めました。
両者の調停のため、永徳寺と正法寺の僧が三田義広を訪ねましたが・・・
その目の前で、三田義広が自害してしまいました。
三田義広は戦働きで、度々葛西晴信から恩賞が与えらえていました。
柏山明宗または葛西晴信が三田義広を恐れ、謀殺したとする説があります。
数人の子の内、三田義勝は柏山家を離れ、最終的に南部家臣となりました。
1591年、伊達家臣・大内定綱が城主となりました。
大内定綱は権謀術数に優れ、槍の名手でもありました。
かつては伊達政宗を騙し、居城を追われた事もあります。
しかし、1589年の蘆名家との決戦直前に伊達政宗に鞍替えします。
よく許したと思いますが、蘆名軍が嫌がる場所を差し出したためでした。
前沢城主となった大内定綱は、麓に館を築いてそこを政庁としました。
以後、仙台藩の前沢要害として、明治まで続きました。
所在地:岩手県奥州市前沢区陣場(お物見公園)
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