2020/03/24
衣川柵/岩手県奥州市
衣川柵は、安部氏・清原氏の本拠地でした。訪問日は2017年8月7日です。

安部頼時は陸奥国奥六郡を治めた俘囚の長です。
父・安部忠良が陸奥国権守だったため中央貴族の末裔とする説もあります。
安部氏の本拠だ!と、はやる気持ちを抑えつつ訪ねましたが・・・
城館跡らしさは全く感じられず、何度もiPhone様で位置を確認しました。
半迷子状態で車を走らせていたら、道端にこれがありました。
説明板のタイトルである「並木屋敷」が、安部氏の政庁の正式名称です。
安部氏を滅ぼした清原氏もここを本拠とし、衣川柵と呼ぶようになりました。

こんな感じですよ~ということで、周りの風景です。
辺り一帯は田畑となり、遺構は全く見当たりません。

衣川柵(並木屋敷)の施設として、手前に接待館がありました。
ここは名前の通り、接待のための宴会を行う場だったとされます。
この敷地の中では、捨てられた素焼きの器が大量に発掘されました。
素焼きの器は使うと跡が残るため、一回キリで捨てられるそうです。
そのため、ここが客をもてなす場所だったと考えられています。

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ここには、衣川柵には無かったいい図があります

衣川柵全体も描きつつ、接待館の位置もわかりやすくなっています。
手前から見た図なので、方位は右が北です。
衣川柵が、大きく蛇行する衣川を天然の堀としていたのがわかります。
周辺には「~館」が沢山あり、かなりの規模だったようです。

接待館跡も、掘ってみるまでは田畑だったそうです。
発掘調査では、堀や土塁が見つかったそうです。
現地はこんな感じになっており、埋め戻されたようです。
◆歴史◆
安部頼時が本拠にしたとされます。
安部氏は出自不詳ですが、安部忠良が1036年時点で陸奥国権守でした。
安部忠良の子が安部頼良(=頼時)で、並木館(=衣川)を本拠としました。
朝廷への租税納付を怠り、1051年、陸奥守・藤原登任の討伐を受けました。
安部軍は鬼切部の戦で国府軍を撃退し、藤原登任を退任に追い込みました。
そこで朝廷は、河内源氏の棟梁・源頼義を安部氏討伐に向かわせます。
源頼義が多賀城へ到着すると、安部頼良は恭順の姿勢を示しました。
この時に名前の読みが同じであることを遠慮し、安部頼時と改名。
さらに翌年、上東門院の快癒祈願のため、安部頼時は大赦されました。
そのため源頼義は、安部頼時を討伐する大義名分を失いました。
1056年、源頼義が仕掛け戦が始まりました。
陸奥守の任期満了に伴い、源頼義が引き揚げることになりました。
しかし、ここで事件が起きます。
・・・途中まで書きましたが、ほぼ前九年の役になりそうです

ということで、ザックリ箇条書きにします。
1057年、安部頼時が戦傷が原因で死去し、安部貞任が継ぎました。
1062年、清原氏が参戦、厨川の戦で安部貞任が負傷し捕まりました。
安部貞任は源頼義の前で絶命し、首が都へ送られました。
源頼義は安部氏討伐の功により、収入の多い伊予守に任命されます。
その他、源義家は出羽守、清原武則が鎮守府将軍に任命されました。
安部氏の旧領地は清原氏に与えられ、並木館改め衣川柵を本拠とします。
清原氏は3代にわたり衣川柵を本拠としました。
清原家当主は清原光頼でしたが、実際に戦った弟が当主になったようです。
・・・推測なのは、その後の当主が清原武則の系統だからです。
清原光頼とその子は、その後も出羽を本拠としています。
清原氏は清原武則、清原武貞、清原真衡の3代が衣川柵を本拠としました。
清原真衡の時に権力集中を図り、一族との間に軋轢を生じました。
これが後三年の役のきっかけとなり、清原家は滅亡へと向かいます。
清原真衡は戦いを優勢に進めましたが、1083年、出羽へ行軍中に急死。
領地は争っていた義弟の清衡と、異母弟の家衡に分割相続されました。
その後、清原清衡・家衡兄弟で争うようになり、清原清衡が勝利。
清原清衡は平泉館を本拠とし、実父の藤原姓を名乗りました。
尚、藤原清衡は衣川柵の南岸に中尊寺を築いています。
また、南西部分の泉ヶ城は藤原秀衡の三男の居城と伝わります。
そのため、衣川柵跡は奥州藤原家時代にも重要な場所だったと思われます。
所在地:岩手県奥州市衣川区並木前
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